きのこのへや

■きのう、何読んだ?■
読んだものを節操なく残しておくページ
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2013/02/04(月) 
「暗黒館の殺人」綾辻行人(講談社文庫)
正直に言うと長すぎて(それを切れ切れに読んだもので)何が何だったのか分らぬままに終わってしまった。本に謝りたい。
口絵と本文の図版が小野不由美によるものだった。


2013/02/03(日) 
「プリンセス・トヨトミ」万城目学(文春文庫)
学生時代やアイデンティティの拡散の時代をそのままスケッチしてネタにしたような作家がどっとデビューして、この人たちはこのままどうなっていくんだろう、これを食い物にして生きていくんだろうか、それっていつまで通用するんだろうかと、なんとなく思ったりしていた。
万城目学も、その作家の中のひとりだったが、最近「新潮」で書き下ろし作品を読んだり、本書を読んだりしていると、この人の手元に残っていたのはネタとしての学生時代ではなかったのだな、なんてぼんやり思った。
「プリンセス・トヨトミ」には、途方もないバカバカしさがあった。浪花節も混ぜ込んで、ますますバカバカしさが増長しているけど、悪くない。ちなみに映画版で割愛されていたディテールに真骨頂がある。特に、OJOの事務所への違和感が着々とあらわになってくる局面なんかはものすごく面白い(バカバカしくて)。


2013/02/01(金) 
「阪急電車」有川浩(幻冬舎文庫)
「恋愛小説とか読むんですか?」と尋ねられて、さて何か読んだだろうか、と脳内検索を素早くしてみたが、一向に検索結果が上がらなかった。辛うじて思い出されたのがツルゲーネフの「初恋」とかで、これは言えば言ったで嫌みだろうか、どうだろうか、と思い悩んでいるうちに、この人いいですよ、と勧められたのが有川浩である。

その後も、そんな声をいろいろな方向から浴びたので、有川浩に手をつけてみようかという気分になった。
それで「阪急電車」に取り掛かった。

書き出しが次のように始まる。
電車に一人で乗っている人は、大抵無表情でぼんやりしている。視線は外の景色か吊り広告、あるいは社内としても何とはなしに他人と目の合うのを避けて視線をさまよわせているものだ。そうでなければ車内の暇つぶし定番の読書か音楽か携帯か。

図と地というのがありうるならば、この数行で描かれているのが、全国津々浦々を走る電車の車内の地であり図である。このなかに生じてくる出来事が、この本の物語になるが、多くの場合、私たちの日々の中には、そうやって電車の中にわずかに生じてくる出来事すら生じてこないほうがたいていである。その一方で、何も起こらない電車の車内には、多くの物語の萌芽があるのだろう。だから、ひとつひとつの物語がとてもむずがゆく、こっ恥ずかしいような思いを呼び起こす。

いい本を勧めてもらった。


2013/01/20(日) 
「クラバート」(上下)プロイスラー(偕成社文庫)
プロイスラー「クラバート」(偕成社文庫)だーっと読んだ。もう一回読む!今度はねちねち読む。
小さいときから図書館や本屋さんで見かけていたし、河合隼雄も書評していたし、手を伸ばしかけていたけど、表紙の絵の黒さと怖さ(だって顔が鳥にくっついているなんて)に手に取れなかった本だった。ようやく手に取れたこの本だった。

やはり怖い本だったのは間違いない。少年たちは魔法を学ぶかわりに、あるところにがんじがらめにされたうえ、毎年毎年、着々と近づいてくる死の足音を恐れている。これでは魔法を学んでも意味がないではないか、と思わずにはいられない。そこに一筋差し込む光明は、毎年毎年不可避に、かつ不自然に訪れる死の足音を退ける可能性であるとともに、自分から魔法をも葬り去る光でもあったのだと思う。

「千と千尋の神隠し」のモチーフになったと言われる箇所も、随所に見出された。


2013/01/12(土) 
「ウエズレーの国」 ポール・フライシュマン文, ケビン・ホークス絵 (あすなろ書房)
表紙から面白い。最初のページから面白い。ちょっと周りから浮いていて、逃げ足の早いウェズレーという男の子。お父さんもお母さんもちょっとそれを心配しているけれども、特に何とかしようと思っていないのがとても素敵だ。

夏休みに入ると、ウェズレーは庭を耕し、どこかから飛んでくる植物の種を迎え入れる。その種を育てるところからウェズレーの世界は広がっていく。夏休みが終わるとき、彼はまた学校に戻っていくのだが、夏に育んだ小さな世界は、戻っていく世界までをも大きく変えていく。

学んだこと、知ったこと、面白かったことは、「いつか何かになるさ」というお父さんとお母さんの言葉が彼のなかに確かに息づいている。


2013/01/12(土) 
「ふしぎな木の実の料理法 (こそあどの森の物語 1)」岡田 淳 (理論社)
「あまやどりはすべり台の下で」の岡田淳のシリーズもの。「こそあどの森の物語」の1冊目。

人づきあいが苦手なスキッパーに、南の島からバーバさんが不思議な木の実が送られてくる。同封の手紙には料理の仕方も書いてあったのだが、雪の中を運ばれているうちに手紙が濡れてしまって、料理方法が読み取れなくなる。こそあどの森の誰かのところに行けば、その料理方法が分かるはず、ということまでは読み取れるので、スキッパーは歯を食いしばって森の人たちのおうちを訪ねていく。家でじっと一人で過ごすことの楽しさと、たくさんの人たちと過ごす喧騒と楽しさを知っている人ならだれでもどこかで琴線に触れるような、そんな局面がたくさん出てくる。

挿絵も岡田淳の手によっている。特に、こそあどの森のおうちの図などはとっても楽しい。


2013/01/06(日) 
「少女には向かない職業」桜庭一樹(創元推理文庫)
ジュブナイル小説、という言葉をこの本の解説で初めて知った。なんというか・・・昨日の日日日といい、最近こわれもののようなあやうい心を持った少年少女のあやうい物語ばっかりに当たっていて滅入ります。


2013/01/05(土) 
「ちーちゃんは悠久の向こう」日日日(角川文庫 )
日日日であきらと読むという、不気味なようなしゃれているような名前の作家を知ったのはいつだっただろうか。ペンネームの読みだけ分かって納得してしまって、ずっと読まずにきていた。

今回読んだのは、その日日日であきらのデビュー作だそうだ。
主人公は高校生の男の子で、「ちーちゃん」とはその主人公の住むアパートのお隣さんの同級生の女の子である。小さいときからずっとお隣さん同士で育っているが、ちーちゃんは怪談好きで幽霊が見たいと言っては主人公をちょっと怖がらせるかわいい女の子。二人の関係が丁寧に描きだされていくなかに、主人公の境遇も見えてくる。ちーちゃんのありようも見えてくる。日日日もあとがきで述べているが思春期の人のあやうさのようなものが見えてくる作品なのだろう。

が、思春期のあやうさ以前に、主人公の周囲を見る目の節穴ぶりが振りきれていて(思春期特有の節穴ぶりは作者によって織り込まれているのがわかるが)、大丈夫だろうかこの男子はと思った。


2012/12/06(木) 
「火山のふもとで」松家仁之(新潮社)
すばらしいのひとことにつきます。若いころの主人公の「僕」にはときどき「おいっ(苛々)」と感じるところもあるが、それにしても、建築を愛し、建築に愛された人なのだろうと思い幸福になる。とりあえず鉛筆削りに使っていたフォールディングナイフと鉛筆のエクステンションがほしくなった。


2012/09/25(火) 
「食べごしらえおままごと」石牟礼道子(中公文庫 )
羽田空港で、とにかく何か読みたいと思って、ふらふらと入ったキオスクみたいな書店。そこで見つけた。キオスクみたいだったけど、思いのほかの充実のそろい振りでした。

出たてホヤホヤの文庫本。食卓をめぐって書かれた本といえばそれだけなのだけど、この人が親しんできた世界がよく見えてくる。口絵の写真がどれもこれも美味しそう。それから、とにかくボキャブラリが豊か。読みながらはっとすることがたくさんある。


2012/07/09(月) 
「風の盆恋歌」 高橋治 (新潮文庫)
読みながら、あれ、こんなにこの人はしらっと恋愛について書く人だっただろうか、と思い、いや、文体もずいぶん変える人だから、ありうるのかな、しかしこんな作品描く人だったかな、なんて思いながら読んでいた。

読み終わってつくづく作者をみたら、作者違いだった。
この本を入手したのは古本屋さんで、橋本治の本の並びから取ったはずだった。
高橋治だった。なんということ。でも新しい本に出会えたからよしとしよう。

おわら風の盆の町に、東京の新聞記者都築が一軒の家を買い上げた。年に2、3日、風の盆の祭りのあいだを過ごすためだけに、である。誰かを待っているような風もある。待ち人は「来らず」と相場が決まっているものだけど、この本では待ち人はちゃんと来てくれた。そこから動き出す、たった三年の物語だった。実質それは両手の指におさまるかおさまらないかくらいの日数の話でしかない。短くて長い物語。

八尾の町とそこの人を勝手に好きになりそうな物語でもあった。


2012/06/30(土) 
「被害者は誰?」 貫井徳郎 (講談社文庫)
うわあ、ひさしぶりのこのページの更新。
読んでいないわけでもなく、むしろ最近たくさん本を読んでいるのだけど、書き留める気が起きなかったというただそれだけ。

この本は、貫井徳郎の短編。「慟哭」と似た仕掛けも多く出る。
ずっと軽くて読みやすいので、「慟哭」が苦手な人、長編が今は読めないと言う人は、こちらもありかもしれない。


2011/12/20(火) 
「大密室」有栖川有栖・恩田陸ほか−その2 (新潮文庫)
ひきつづき 「大密室」有栖川有栖・恩田陸ほかの短編。

北森 鴻「不帰屋(かえらずのや)」
 北森 鴻という作家の作品は初めて。これもまた「蓮杖那智シリーズ」というシリーズものらしい。とりあえず、主役の二人のひととなりが初読の人間にもわかるように書かれているあたり、大変好感だった。
 密室ミステリーがしっかりストーリーのなかに埋め込まれていて、ストーリー自体が読ませてくれるのもよかった。

 主役の「私」は、蓮杖那智という女性の民俗学者の助手をしている内藤三國と言う男子である。彼が、先生の仕事の整理をしているうちに、蓮杖のある未公開論文に行きあたる。それはかつて、集落の過去に調査で訪れたおりに遭遇した事件のためだった。
 事件を巡る、「探偵」に相当する蓮杖と「助手」であり「記録者」である内藤のまなざしが深い。短いながらも良いミステリーの仕上がりだった。


2011/12/15(木) 
ジャン=リュック・ナンシー「恋愛について」(新評論)
ナンシーはハイデガーやデリダを下敷きにしながら、今も新たに考察を示す、素敵な哲学者。
私は「単独化」という語でしばしば言われる経験・契機について考える上での必要から、ナンシーに出会いました。

「恋愛〜」はジャン=リュック・ナンシーの子どもたちのための講演。とても分かりやすい言葉で、けれども決して稚拙な議論ではなく、誰にとっても重要で、考えるとちょっと混乱をきたしそうな「恋愛」というテーマにまっすぐ取り組んでいる。短い講演の後は、子どもたちとの質疑応答。
翻訳者が言うとおり、ほとんどの子どもたちの質問は「へー、そうですか」という感じの典型的なものだが、読んでいてひとつ、なんだか涙が出そうになった質問があった。ある女の子の質問だった。

「どうして、『あなたが好き』って最初に言うのは難しいんでしょう?」

このささやかな大問題が妙に真にせまってていい。それへのナンシーの答えがまた素敵。いろいろなことが話されるのだけど、一番いいなと思ったフレーズはここだった。

ナンシー: 「『あなたが好き』って言ったら、相手に何て言って欲しい?」

質問者の女の子:「『僕もだよ』って」。

ナンシー: 「だよね!」

――僕もそうだよ、「好き」って言ったときに、どんな答えよりも「私もよ」って言われたい。そうだよね!――
なんて素直な言葉だろう。こんな言葉でものを考えたい。


2011/12/11(日) 
「大密室」有栖川有栖・恩田陸ほか (新潮文庫)
密室推理小説をめぐる8人の作家のアンソロジー。短編に加えて、密室をめぐるエッセイもついてくる。

掲載順がまさかの「あいうえお順」である。とりあえず「あ」からスタート。有栖川有栖と恩田陸の作品を読む。

■有栖川有栖「壺中庵殺人事件」
 いつものごとく(…というほどたくさん読んでいないが)火村&有栖川のコンビの短編。短編のほうは疑わしい人が3人しか居らず、「密室の謎を解く」ことにのみエネルギーが集中している。火村&有栖川のコンビ設定も、むしろ謎(トリック)解きに集中するための舞台装置と見たほうがよいのだろうか。エッセイはうーん、あまりよくない、と言う気がする。

■恩田陸「ある映画の記録」
 密室トリックを作品の種にあまり使わない作家が、どんな密室を書くのかな、と思ったが、やってくれました。密室というテーマに「そんなに情熱を感じない」という作家だけある。見事な抜け道で密室というお題をくぐりぬけてくれている。やっぱりそのものズバリで「密室」を作るわけではなかった。作品自体は「不安な童話」を彷彿とさせるところがあった。
 主人公(私)は叔父さんの葬儀の帰り道、「青幻記」という映画についてふと思い出す。そしてそれについてぽろっと母親に話した時、記憶の底に封じ込められていたひとつの出来事を思い出す。その出来事とは、叔母さんの死をめぐる不審な出来事だった。
 とりあえず一度読んで、もう一度読み直すと、冒頭部分の意味が良くわかってきて面白い。(ただどうしても読み終わるまで、主人公の「私」のことを、どう読んでも女の人のように思われてしまうために、男性であることがわかる局面でいつもびっくりして我に返ってしまう。)


2011/11/14(月) 
「鍵盤を駆ける手―社会学者による現象学的ジャズ・ピアノ入門」 D.サドナウ(新曜社)
 図書館の本棚で見つけて読み始めたら止まらない止まらない。
 D.サドナウの「鍵盤を駆ける手」(新曜社)1993年。ジャズピアノを弾く身体になっていく、サドナウの手探りが面白い。ただし、彼はクラシックピアノの素養がかなりあったから、「もしもピアノがひけたなら」レベルからのスタートではない。そこが一番難しいんじゃないのっ、という箇所をすいすいと乗り越えていくところが小憎らしい。そして、ジャズピアノの先生にもっと言語化してくれと食いついてうざったがられるところがいい味を出している。バイエルレベルでピアノを離れ、大してピアノが弾けない私には、ふわっと眠たくなることがある。だが読めちゃうし面白い。なによりしつこいところがとてもいい。

まだ読みかけ(第1章を終えたところ)なのだけど、面白かったので、ひとまずのメモ。


2011/09/13(火) 
「流れる」幸田 文 (新潮文庫)
同じ作者の「木」という本の一節を読んで、なんとまあ、見事な文章かとつくづく思い、以来この本を買おうと思うのだが、本屋さんで思いつくときにはその本がいつも見当たらない。代わりにさあどうぞとばかりに本書「流れる」が本棚に立っていたので早速連れ帰った。

やはり見事な文章だ。主人公であるひとり身の女性が芸者置屋に女中として働き出す。名前が梨花なんてしゃれた名前だからか、40過ぎの女性とは思われなくなってくる。梨花がとりわけ、周囲を驚きに満ちて見ているからかもしれない。目の覚めるような鮮やかさがある。芸者さんたちのちょっとしたしぐさにどきっとし、花街の秩序に感心する。奇異に見るというよりも、むしろ驚きながらもどこか共鳴し、感心するという風だ。

見事な文章だが、なんというか、すぐには身体が馴染まなかった。この感じはどこかで出会ったことがある、と思う。2,3人の作者の文章が、本がおもいうかぶ。

めりはりというのからは程遠く、ひとつひとつの出来事自体は劇的であるはずだが、それらをずるずるだらだらと女性たちが渡りあるき、切り抜けていき、気づけば次の“局面”と思しきものを迎え入れている。読み続けていく間も、いつか何か起承転結の「転」のようなものは起こるのだろうか、いやそもそもこの物語は起承転結という言葉となじむのだろうか、と思う。そしてこの本はちゃんと終わってくれるのだろうか、どこかで尻切れトンボに文章の途中でちぎれてしまうのではないかと不安になってくる。それくらいに坦々、淡々としていた。

終わりはずっと予期されていたけれど、梨花がその洞察力を露骨に示してしまったところにやって来る。そして、そのときには、梨花はどうにもなじまないと思っていた花柳界の物事の対処の仕方をすっかり身につけてしまっているという不思議がある。物語の最後はまた、梨花にとっての終わりではない。流れる先がまだあり、一緒に過ごした人たちにも明るい先行きか、暗い先行きかはそれぞれに異なるだろうが、たしかにそれぞれに先行きというものがある。その先行きさえこの流れの中でほの見えているのが面白い。

次はやっぱり「木」。


2011/09/02(金) 
「六の宮の姫君」北村薫 (創元推理文庫)
貸したら返ってこない本のひとつ。
人生の春、というどこかで聞いたことがあるはずの言葉が、これほど鮮やかに光る本もない。


2011/09/01(木) 
「黄泉がえり」 梶尾真治 (新潮文庫)
読み終わるのにえらく時間がかかってしまった。
泣けるらしいのだが、読む時間が妙に間延びしすぎて泣くチャンスを逃してしまったようだ。

熊本市あたりのお話。死んだはずの人がよみがえってくる。必要とする人のもとに帰って来る。ただ、どこかちょっと違う人として戻って来る――黄泉がえってくる。


2011/08/30(火) 
「スキップ・ビート!」仲村佳樹 (花とゆめコミックス)
少しずつ、1巻から最新刊まで全部読んじゃった。
女優としてデビューした女の子が主役のにぎやかな少女漫画。

…花とゆめコミックスの女優の物語といえば、もうひとつ、紅天女が出てくる、オーホホホホで、紫のバラの人!で、マヤ…!の例の長くてにぎやかなのがあるが、あれはちゃんとエンドロールが見られるようになるんだろうか。


2011/08/01(月) 
「姑獲鳥の夏」京極夏彦 (講談社文庫)
今日はおやつを食べながら「姑獲鳥の夏」を読んだ(古本屋で買った)。文庫の「コンパクトさ」という長所を台無しにする本だ、あれは。

京極夏彦のデビュー作だったとは知らなかった。読んでいてつくづく気がついたけど、私はたぶん、こういうキャラクターで押すタイプの作品をエンターテイメントとして楽しむことを本に求めていない。

繰り返し出てくる坂のシーンがいい効果になっている。主人公の関口が日常に引き戻される坂のシーンは悪くなかった。


2011/07/26(火) 
「ナイチンゲールの沈黙」 海堂 尊 (宝島社文庫)
犯人二人の真意が見えやすくて困る。
これはミステリーじゃなかったのかな。


2011/07/13(水) 
「麦ふみクーツェ」 いしいしんじ (新潮文庫)
「トリツカレ男」もそうだったが、ひとつひとつのばらばらにも見える小話が、少しずつまとまりを持ち始めて、最後の最後にピタッとジグソーパズルのピースがはまるように収まるべきところにおさまっていくのが面白い。

主人公の「ねこ」と、数学狂いのお父さんと、ティンパニーをぼいんぼいんとたたくおじいちゃんの物語。


2011/04/07(木) 
要チェックの本
1. 吉村 文男(2006). 学び住むものとしての人間 春風社
2. 石澤 誠一(1996). 翻訳としての人間 : フロイト=ラカン精神分析の視座 平凡社


2011/04/03(日) 
「アルキメデスは手を汚さない」 小峰元 (講談社文庫)
学園ミステリーというやつだろうか。
このジャンルは、学園内で大変な事件が起こって、なぜだかそれをまた生徒たちが解決するという自己完結型の世界を描くという「型」のようなものがあるらしい。その「型」をいじって遊んでいるだけ、という印象がぬぐえない、鼻につく作品も少なくない。

この作品は、その学園ミステリーの先駆的なものなのだとか。作品の中身は書いてしまうと犯人をばらしちゃうことになるので書かないが、ミステリーの筋よりももっと面白いなと思ったのは、高校生たちの生活模様だった。「大人(親・先生)や権力への抗議」や「反発」が繰り返し語られる。恩田陸の「六番目の小夜子」では、受験勉強やいわゆる「自分探し」二忙しい高校生たちが、米澤穂信の「古典部」シリーズでは、「暇でやる気のない」男子高校生が主人公になり(ところが主人公のことを繰り返し「暇でやる気のない」者とキャラ付けしているが、どこらへんが暇でやる気がない感じなのかちっとも見えてこない)、すっかりおとなしい高校生たちばかりになっているのに比べて、どれだけ本気で「反抗」や「抗議」をしようとしているのかは分からないが、熱のある高校生ライフだなあと思ったりするのだった。


2011/03/29(火) 
吉田篤弘「つむじ風食堂の夜」(ちくま文庫)
クラフトエヴィング商会吉田氏の小説。あることとないことの間隙を縫う文章。ぎりぎりの繊細さにどぎまぎする。


2011/03/28(月) 
「トリツカレ男」いしいしんじ(新潮文庫)
ロスタンの「シラノ・ド・ベルジュラック」とワイルドの「幸福の王子」を彷彿とさせる。シラノ〜と大きく違うのは、人を愛した男(主人公)が死なずに生き残ったところか。ただそのかわりに、死者がきちんと葬られる。ワイルドと違うのは、王子の遣いをした者が死ななかったことか。死んで美談になってどうするの、という疑念を少し晴らしてくれる。


2011/02/22(火) 
「ニシノユキヒコの恋と冒険」 川上弘美 (新潮文庫)
 まったくどうしようもない男子の話だった。ニシノユキヒコは、恋の遍歴と迷走を10代のころからどうしようもない感じで繰り返し、複数の女の人との付き合いが絶えないのだけれども、その人たちにも決まって半年以内で振られる。
 文庫の最後で解説の藤野千夜が「もし友だちの話だったら、逃げてーっ、とすぐに忠告もしたくなるところ」と言っていたが、まことにその通り。お化けになっても、やはり「どうしようもない」。付き合いのあった女の人(不倫だった)のところに「好きだよ」とか言いそうな感じで化けて出てくる。死んでも治らないってこういうことなのかなあ。ばかばかしいのだけど、けっこう切ない。ニシノユキヒコも切ないが、そのニシノユキヒコを好きになり、彼から離れていく女の人たちも切ない。吾も彼も切ない。いろんな意味で余韻の残る物語でもあった。


2011/02/21(月) 
「若かった日々」 レベッカ・ブラウン・柴田元幸(訳) (新潮文庫)
根強いファンが多いという、レベッカ・ブラウンの「自伝的短編集」。

実はなかなかとっつけなくて、しばらく苦労した。
何度か手放しそうになったが、半分くらいまで頑張って読んでいったら、調子が出てきた。彼女自身の生きてきた道を、事情や経緯を最初から懇切丁寧に説明しようとするのではない文章。あとからあとから、書かれていることの意味が分かってくる。


2011/02/21(月) 
「恋する短歌」 佐藤真由美 (集英社文庫)
最近「恋する日本語」ってのもあるなあ、とか思いながら、買って読んでみた。

少々ガチャガチャしている。まあ、いいかなあ、と思ったのは次の歌。

さくらさくら 去年誰かと見たさくら 知らんぷりしてまた見るさくら
アスファルト温めながら夏が来る あなたはどこで何してますか



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