きのこのへや

■きのう、何読んだ?■
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2009/02/12(木) 
「ワニ ジャングルの憂鬱・草原の無関心」 梨木香歩・出久根育
ジャングルでは多くの命が生まれ、生きるために喰い、やがて死んでいく。嫌われ者ワニの切なくも求道的な一生を淡々と描く
 カメレオンとのやりとりは、まさに自明性にひびの入る瞬間。ジャングルのなか「我々」と「私」との間でワニは考えます。


2009/02/12(木) 
「フレデリック」 レオ=レオニ
ちょっとかわったねずみのおはなし。

 なんどとなく読んではモヤモヤした作品。フレデリックというねずみは詩人であり哲学者でもある。何の具体的な働きもしない彼に、周囲のねずみは冷淡だった。ある日、冬篭りのさなかに食べるものがすべて尽きたとき、フレデリック(詩人・哲学者)がそこにいる意味が明らかになり、周囲のネズミたちが彼を見直すことになる。お話はそこで終わるが、食料の尽きたネズミたちはその後果たしてどうなったのか、あいも変わらず飢えているネズミたちは、フレデリックのことをその後どう思うのか、気になって仕方がない。


2009/02/12(木) 
「モモ」 ミヒャエル・エンデ
-時間どろぼうとぬすまれた時間を人間にとりかえしてくれた女の子の不思議な話。
3部立てになっている。第一部は、子どもたちの自由奔放な遊びの世界が、第二部は時間泥棒によって吹き込まれた時間の感覚と共にあり、将来の目的に向かって区切られた今という時間のなかで奔走する世界が、最後の第三部は、時間の姿があらわになった世界が描かれる。


2009/02/12(木) 
「敬虔な幼子」 エドワード・ゴーリー
あまりにも純粋で清らかな魂が 汚れたこの世から 昇天するまでを 独自の手法で描いた傑作。
 本屋さんで立ち読み。ヘンリー・クランプという「信心深く」「清らかな」男の子が昇天するまでのお話。清らかで信心深い子どもを描く作品群をなぞったような、どこか風刺しているような、すっきりしない絵本で、うがった見方をしても、文字通りお話を受け止めても、どこか気持ち悪さと割り切れなさを抱えて、つい立ち止まる。天真爛漫の子ども像に辟易したときにお勧めの一冊。


2009/02/12(木) 
「だってだってのおばあさん」 さのようこ
 表題の「だってだって」は何にとどまろうとする言葉だったのか。
 「だっておばあさんなんですもの」が口癖のおばあさんとねこがふたりで暮らしていた。ねこはおばあさんの誕生日ケーキに立てるろうそくを買ってくるが、ねこが買った99本のろうそくは帰り着いたときにはたった5本になっていた。5歳になったおばあさんは、次の日からどうするの?さのようこが送る、「おばあさんがいっぱい持っている子どもの心」の本。


2009/02/12(木) 
「めざめれば魔女」 マーガレット・マーヒー
ローラの幼い弟が突然病気になった。ローラはこれは一種ののろいによるものと直感し、魔女に変身して弟を救う決心をするが……。思春期の少女の微妙な心のゆらぎと非現実の出来事を並行させ見事に描いたカーネギー賞受賞作品。
この本にはたくさんの子どもたちが出てくるが、その誰よりも一番生々しく原初的で「子どもらしい」のは、カーモディ・ブラック(悪魔)だった。彼の最後の叫び(感覚的なよろこびを絶望的になってならべたてる)は、人があまり口にしない欲求―鮮やかな感覚への執着―を奔放に、なまなましく表現する。
「たのむ、どうか……ああ、あんたにもわかってもらえさえしたら……。わしは人間の感覚というものにほれこんでしまったんだよ。それがどうやってもあきらめきれなかった。あんたにはあたりまえすぎて想像もつかんだろうが――そうさ、初めっからあるから想像することもできんのさ、あの触れたり味わったりするよろこびはな。皮膚だけで――そう、皮膚だけだってあの歓喜を――そう、あの歓喜を味わえるんだ!」(中略)「モモを食うだろうが。気からもぎ取ったばかりの、秋の陽にあたためられたやつをさ。実のしまったリンゴにかぶりつく時もいいねえ。ほれ、汁が口いっぱいにひろがってさ。あんなすばらしいことってあるかい。それから素肌に陽が当たる感じ。それから、塩、塩!」
「なんていいもんだろう、塩は。生みたての卵を四分ゆでて、そいつにかけてさ。それから、人間の汗をなめたときのあの感じも。」
 ローラの弟を呪った悪魔は、それまでにも幾世紀にもわたって他人の命を盗んで人形を保ってながらえてきた。「感じること」があたりまえのことではないために、「感じること」へ執着もし、人形へもこだわり、そして自由に生きることができた。ローラにとって不気味でおそろい存在だったブラックとは、そういう存在だったのだ。


2009/02/12(木) 
「くまの子ウーフ」 神沢利子・井上洋介
あそぶことが大すき。たべることが大すき。そして、かんがえることが大すきな、くまの子ウーフ。ほら、きょうもウーフの「どうして?」が聞こえてきます。
 自分のうっかりでちょうちょが死んだときには大泣きに泣いたウーフは、「とんぼやてんとうむしの死や、食用になった魚や肉にも泣かないのに、なぜちょうちょが死んだときだけ泣くの?」というキツネのツネタの問いに言葉を失う。言葉を失いながらも、ちょうちょのお墓に備えたドロップにたかった蟻に怒り、食べてしまう。その瞬間、涙のたまった目を丸くしたウーフに、キツネのツネタの問いがもう一度響きわたる。「ちょうちょだけになぜなくの?」


2009/01/20(火) 
「新川和江全詩集」 新川和江 (花神社)
新川和江の「どれほど苦い…」という詩にはっとするものがあり、全詩集を借りてきた。腹の底から出てくるような言葉で綴られた詩がいっぱいある。壮絶なまでの詩人のあり方が漏れ出ているような詩もある。さらりとユーモアに乗せてファンタジーを送り出すような、そういう詩もある。
師であった西條八十への悼詩(「あなたは薔薇の火の中から」)は、ほんのりとかわいらしく、そのためによりいっそう悲しく響く。


2008/09/29(月) 
「教室の空気を変える!授業導入100のアイデア」 上條晴夫 (たんぽぽ出版)
読んだらかえってしんどくなりました。これは学校の先生が、毎日教室で子どもたちとやっていく上で、ちょっとヒントを得ようとして読む本なんだな、と改めて痛感。

 教室に入った途端、教室の空気(雰囲気)が授業をはじめにくい情態にあったりすることがある。その転換する機会を作る仕方を、いろいろな先生たちが提案している。
 例えば「教室の空気を一気に盛り上げるパフォーマンス系導入」として「撮影です」というアイデアが挙げられている。「ビデオカメラで子どもたちを撮影しながら、教室のテレビに生で映像を映す。子どもたちは、自分たちの様子をテレビで見て、さまざまな反応を示す。姿勢の悪い子を映したり、落し物を映したりすると当事者があわてて行動するのが面白い」という。
 こんなアイデアが100個も掲載されているから、読むだけでちょっと食傷気味になる。長い45分の授業、長い1年間の一瞬を切り取ったものだと無理やり考えて落ち着いた。


2008/09/25(木) 
「ふしぎな石と魚の島」 椋鳩十 (ポプラ社)
 こまっしゃくれた子ども約二名が大分県の離島、姫島の歴史や天然物を巡って歩くお話。はとむくじゅう、じゃなくて、椋鳩十の作。そういえば、「怪人二十面相」とか、昔の子供向け小説には物言いがこまっしゃくれた子どもがいっぱい登場していた。
 先日姫島に行ったときに、ガイドブックの代わりに読んだ。道中ある人と、この本の「すばらしいねえ」というキメ台詞に笑った。本には藍鉱石というのがあると書いてあったが、それは見られず。見てみたかった。


2008/09/24(水) 
「容疑者Xの献身」 東野圭吾 (文春文庫)
近日公開される映画の原作でした。

「探偵ガリレオ」シリーズの「探偵ガリレオ」「予知夢」に続いて第3作目にあたる本作ですが、一番面白かった。東野圭吾は、表立たない「思い遣り」「想い」に仕掛けを講じる作品に味わいがあるなーと思った。「白夜行」しかり、本作然り。


2008/09/22(月) 
「発達障害の豊かな世界」 杉山登志郎 (日本評論社)
「この病院は僕を実験台にしようとしているんだ!先生は僕を抹殺しようとたくらんでいる」
うんざりしながら私。
「それなに?」
「火曜サスペンス劇場でした」
(本書第3章「アスペの会」p132)
発達障害を抱える人たちの、文字通り豊かな「世界」を旅する。発達障害といわれる子どもや人と出会っていると、障害とは何なのか、「障害を抱える」とされた人が何を体験しているのか、診断という行為は一体何なのか、診断基準とは一体何が根拠になっているのか?そういうことをつい考えてしまう瞬間がある。そういう一瞬と響きあって、考え抜くための助力になってくれる本。
著者の発達障害へと向ける眼差しがおのずと見えてきて、ああ、こんな風にいられれるっていいなあ、と思う。


2008/09/20(土) 
「最後の親鸞」 吉本隆明 (ちくま学芸文庫)
どこかで「吉本(隆明)さんが左手で書いたような本」と書いてあった。左手に失礼じゃないの、というのはさておき。これが左手ならば、右手(共同幻想論、ハイイメージ論)はどんな本なんだろうと気になる。

「ほぼ日刊イトイ新聞」でイトイ氏と吉本隆明が「親鸞」をテーマに対談をしていた。この記事を読んだあとに本書を読んだら読みやすさ倍増。宗教という形で思想した人が、自らの拠って立つところであったはずの宗教(仏教)を突き詰め解体しながら、考え詰めていった姿が見えてくる。


2008/09/14(日) 
「授業の現象学」中田基昭 (東京大学出版会)
ざっと読んだところまでで。
 5年間、授業観察で小学校に入り続けたという著者は、観察者(第三者的に眺めていたという)としての著者の存在が問題になってきたと述べており、それが問われたのは「授業に独特の生の営み」に由来するという。そこから授業を研究するとはどういうことか、という問いが立った、と著者はいう。授業とは何か、またその授業を研究するとはどういうことかを明らかにするため、「授業に独特の生の営み」を捉えようと、生の営みを捉える助力になるであろう現象学や実存哲学を引いて議論を展開する。現場に入って掴み取られるものの貴重さを述べつつ、従来の研究授業を中心とした授業研究やビデオ撮影しての研究へ批判を向けようとしている(らしい)が、批判の核はどこらへんにあるのか、まだよくわからなかった。
 最初の威勢がよいので、釣られてざっと読んでみたが、最後の結論で、「えっ、そんなあ」、という、ちょっと肩透かしな終わり方。当初問題とされた観察者の存在をひとつ取り上げても、最初に触れていた第三者的なあり方で授業に臨むということがどういうことなのか、ということなどが、意外と簡単に片付けられていた。同著者の次の著書、「教育の現象学」ではもう少し踏み込んだ考察があるのだろうか。もう少し丁寧に読み直して、この論文のコアなところを掴んでみたいのだけれども、掴めるのかな、とハナハダギモン。


2008/07/19(土) 
「一ツの脳髄」 小林秀雄 (新潮社:小林秀雄全集1より)
大正13年(1924)の小林秀雄のもっとも初期の頃の作品。短編小説、といってよいのだろうか。

どうにも拭いきれず、付き纏って離れない、嫌気の気分。ふと興がのってもすぐに褪めてしまう気分。自分の気分にそぐわない「外界」に心奪われる瞬間。群れから自分を画したい衝動。生々しい脳髄が生きている。
読むと気持ちが悪いし、読後感もちょっとどろっとしているのだけれども、もっと丁寧に読みほぐしたい作品。一読では、まだ読んだという気がしない。


2008/07/18(金) 
「傷口にはウォッカ」 大道珠貴 (講談社文庫)
最近、読み慣れない感じの文章ながらも、魅力的だと直感する本とよく出会う。よい傾向。

「孕むことば」を読んでいて、どうしても読みたくなった。急いで近隣の本屋さんに走ってみた。果たして、あった。よかったよかった。

鴻巣友季子さんの文章のなかで、この作品の主人公を子ども嫌いの理想像と呼んでいたから、てっきりこの主人公は「子ども嫌い」なのだろうと思っていた。しかし、最初の段落を読んだ途端、あれっ、と思った。この人は、子どもに夢中だ。子どもが好きだと言わないし、子どもらに対してそういう態度も見せないけれど、子どもがやってくると、そこにすべての注意を傾ける。子ども好き・子ども嫌いの範疇に綺麗に当てはまらない(もちろん子どもと対等に付き合うといったことにも当てはまらない)子どもに夢中な人。

話の筋の中心には、子どもらは出てこない。どちらかといえば「オトナの恋愛(!?)」や家族・友人の話が連綿と続く。40歳の主人公と親戚の子どもたちのかかわりあいは、幕あけと幕ひきに登場する。


2008/07/09(水) 
「文豪ナビ『芥川龍之介』〜カリスマシェフは短編料理でショーブする」 (新潮文庫)
芥川龍之介の作品群を一覧するページ、その魅力を作家のエッセイで読む。

私の最初の「芥川龍之介」は、やっぱり「蜘蛛の糸」だったように思う。この作家の作品は、読後が引き摺るのでなかなか次々と読み漁ることができない。結局、未だに読みきれたのは僅かな数で、留まっている。
(と、言ってみて、実は思っている以上にたくさん読んでいるのかもしれない、と思った。芥川龍之介の作品とも知らずに読んでしまっているものも多い気がする)

最近は、北村薫の「六の宮の姫君」で菊池寛と芥川龍之介の“キャッチボール“を読んだ。あと、劇団二番目の庭の「崩壊」で芥川龍之介に触れたりもした。
そろそろまた、芥川龍之介を引き摺ってみる時期かもしれない。


2008/07/08(火) 
「ネコさまとぼく」 岩合光昭 (新潮文庫)
ネコばっか。赤瀬川原平の解説「岩合さんの猫電波」という文章がいい。でも赤瀬川原平はたぶん、写真は“好き”だけど(岩合さんほど)猫ラブではないような気がする。イワゴウさんの文章から続けて読むと、なんとなくだが、ますますそれがよくわかる。


2008/07/07(月) 
「孕むことば」 鴻巣友季子 (マガジンハウス)
 この筆者は、「嵐が丘」の新訳を出した人らしい。その人が妊娠し、子どもが産まれて、その子といっしょに生きていく。ことばを愛する人が、子どもと子どものことばを慈しみながら日々をやっていく様を、軽妙なエッセイで記している。
 この本は、近所の本屋さんで「面白い本ないかなー」とぶらついていたときに見つけた(その日の絵日記⇒)。「子育てエッセイ」なるものには興味が持てない――というよりも、そういうジャンル化と、その内部で増殖する作品群に違和感を感じる――のだけれども、この本は魅力的で、買うことに迷わなかった。
 「子育てエッセイ」を書いている筆者だから、子ども好きのように思われるが、その実そうではない、子ども全般が苦手なのだ、と告白する。
 わたしにとって子ども嫌いの理想像は、たとえば大道珠貴の小説に出てくる女たち。『傷口にウォッカ』のヒロインは、ガキはうざいうざいと言いながら遊んでやり(口から万国旗を出す「ちょっとしたマジック」を見せたりして)子どもを手玉にとってしまう。かっこいいトリックスターだ。
 これを読んで、ああ、そうだ、と気づく。私は子どもを育てるということ自体を嫌っているのではないし(自分もまた、そうして育てられた。また、周囲には育てる者になった人たちもいる。)、子どもがとても嫌いというわけでもない(現に、小学校で子どもにくっつかれているわけだし)。「子育てエッセイ」への違和感と、小さな嫌悪は、そのジャンルにおいて描かれる出来事、そしてそれを手に取る人たちとのあいだにある、あまやかな連帯感へのものらしい。この筆者の、子どもと子どもがつむぐことばを慈しむ様は、自分のことばへの向かい合い方を反射させながら、ことばや生きるかたちそのものを照らし出す。あらためてことばを紡ぐことに賭けていこう、と思えた。


2008/06/20(金) 
「くるねこ」 くるねこ大和 (エンターブレイン)
猫と暮らす人の話(漫画)。

たくさんの猫と一緒に暮らしているらしいが、その一匹一匹の書き分けがお見事。


2008/06/18(水) 
「オタマジャクシハンドブック」 松井正文・関慎太郎 (文一総合出版)
春、大学の書籍部に行った。スタッフの顔が見えるような個性的な選書も結構あるので、いつも楽しみに立ち寄る。この春の戦利品はこの本。オタマジャクシハンドブック。注目しているのは両生類のうちでも、成体ではなく、なんと幼生=オタマジャクシ、というポケット図鑑だった。写真もオタマジャクシがまずどーんと載っている。成体の写真は辛うじて見えるくらいの大きさで載っている。それぞれの種類の説明も、カエルの説明ではなく、すべてオタマジャクシのために捧げられている。すごい。この本。

本をとったら、まずたぶん表紙に大笑いすると思う。表紙には二匹のオタマジャクシが正面から撮影されていて、顔を寄せ合って「にこっ」と笑っている。しかもタイトルも「両生類の幼生」ではなくて、「オタマジャクシ」。

本文の最初がゲーテの「水のあるところにカエルがいるとは限らない。だが、カエルの声の聞こえるところには水がある」という、何を言おうとしているのかいまいちぴんとこない格言で始まり、次に「オタマジャクシって何もの?」という記事に続く。

写真の関慎太郎さんのあとがきにもほろっと笑ってしまった。写真を撮るのにあたって苦労した点のひとつは、「育てていたカエルが予想に反して違うカエルに育ってしまうこと」だったそうだ。

本気も突き抜けると、こんなに面白い。


2008/05/07(水) 
「『老い』とはなにか」 河合隼雄 (講談社+α文庫)
これまでそこまで深く立ち入ることのなかった、「老年期」の研究の領域に触れている。老年心理学の教科書を読んでみると、理解するまではなんとかなっても、どうにも知識としての理解に留まって、淡白になってしまう。
さしあたり「老年期」「老い」ということに関って、いろいろな人が書いている書き物を読んでみることにした。この本もその一冊として手に取った。100篇を超える断章の集まりで、どれもこれも「老い」に纏わる話題ばかりだ。自分の老眼のこと、自身のおじいちゃんのこと、死のこと、病のこと、「晩年」のこと―例えばモーツァルトの「夭折」は本当に「夭折」なのか、ということ―、西洋と日本の老いのこと、などなど。

なかでも、第8章の「『家出』がしたい」という話が印象的だった。
所謂「三従の訓え」(幼い内は父に、嫁したら夫に、老いれば子に従え)に従って生きてきた女性が、「今になって、自分のやりたいことを一度やってみたい」と言う。一体何をしたいのか、と尋ねると「家出がしたい」と言われた、という話だった。
河合隼雄は、共感と驚愕の入り混じった気持ちで返事に窮した、ということだった。わたしも、なにやらとにかくこみ上げてきて、この女性の見つめる広い世界が苦しいくらいに迫ってきて、涙が出た。


2008/05/07(水) 
石田おさむ 「マンガ ユング深層心理学入門」 (講談社+α文庫)
高校生のときに、初めて読んだユングの本。

ユングの生涯を追いかけながら、ユングの深層心理学を解説する。絵がすごく濃くて、すこし怖いです。けれどもコンパクトにざっくりと感覚を掴むにはうってつけかもしれません。久々に読むと、また深い。


2008/05/04(日) 
「考える人」23号――特集「さようなら、こんにちは 河合隼雄さん」
雑誌「考える人」の追悼特集で、河合隼雄さんの追悼をやっていた。

2006年の夏に倒れられて、次の年のやはり夏に、そっと立ち去っていかれた。
その1年という時間のことを、追悼の文章を寄せたそれぞれの人たちがそれぞれに書いている。寄稿者の顔が良く見える、そして、寄稿者と河合隼雄の絆がしみじみと染み渡ってくる、そういう「文集」だった。


2008/04/12(土) 
北村薫 「冬のオペラ」 (中公文庫)
「《名探偵》というのは、行為や結果ではないのですか」「いや、存在であり意思です」

■名探偵とは
最近、学校でデヴィッド・カンター(D.Canter)の「Investigative environmental psyocholo9y」についての文章を読んだ。これを読んでいて、探偵(Private investigator)を思い、久しぶりに「冬のオペラ」を開いた。この本には、「名探偵」が登場する。しかし彼は、シャーロック・ホームズのように派手なアクションを採るわけでもないし、エルキュール・ポアロのように華麗な種明かしの場を与えられた探偵ではない。実は、探偵としての仕事をしたことがなく、名探偵事務所を維持するために、寿司屋やビアガーデンのバイトや新聞配達をして生きている。それでも彼は、自ら「名探偵」と名乗る。
 一体名探偵とは何なのか。「名探偵」である彼に、主人公は尋ねる。「名探偵」の彼は、その問いに冒頭のように答えている。分かるようで分からない「名探偵とは存在であり意思である」という言葉が、ここ最近になって分かるような気がしてきた。


2008/04/07(月) 
前田重治 「図説 臨床精神分析学」 (誠信書房)
精神分析学は、言葉になりにくい世界をぎりぎりのところで言葉に託していく仕事をしてきた。これを図化するというのはその仕事の大半を割愛する作業なのだろう。図化する側も、また図化したものを受け止める側にも、図に対しては心して付き合う必要があるようだ。
この本を大学の図書館で見つけて、すっかり本が手放せなくなってしまった。最後の章にまとめられている文章の断片、特に最後のページがこころを捕らえて放さない。


2008/01/14(月) 
高楼方子 「十一月の扉」 (新潮文庫)
 昨年の夏休み、せっせと「子ども図書館」に通った。素敵な本はないだろうかと、あの本この本と渡り歩いた。そのなかで、気になっていたけれども、一度も手に取らなかった本があった。「十一月の扉」「時計坂の家」という2冊の本だった。ハリー・ポッターなみに分厚い本で、ひょっとして今流行の「ファンタジー系」と呼ばれる類の本だろうかと思い、そういう本にありがちな「面白かったし悪い本じゃないけど、こういう本を沢山読むよりも、もっといろいろな本を読みたい」というような本ではないか、という思いが脳裏を掠めて手に取れなかった。
 一方で、2冊とも、装丁も上品で本というものに愛情をもっている人が作った本なのだろうと思った。そういう意味で何か期待させられるものがあった。けれども、その分、読んで期待に外れたときの失望は大きい。失望するのが怖くて、触れずにいた本だった。
 けれども先日、ゲド戦記の翻訳をされた清水真砂子さんの講演で、この本が一瞬だけ紹介された。同時に図書館でさんざん迷ったときの期待と不安がよみがえり、「ああ、あの本のことだ」と思い出した。清水真砂子さんの一言に後押しされるようにして、年末に手に取ったという次第。

 中学2年生の爽子は、偶然に見つけた「十一月荘」という館で、転校直前の数週間を家族から離れて一人で過ごす。爽子自身がそうすることをあえて選んだのだった。爽子は、そこでの毎日の生活を物語に仕上げていく。転校直前という事態のなかで、家族とはなれて暮らし、沢山の豊かな人たちと出会うことで、爽子は物語を書かずにはいられなかったのだろう。物語が生まれる瞬間がいかに平凡で、同時に奇跡的であるのかを、わたしたちは、あらためて物語というかたちで再確認することができる。


2008/01/12(土) 
保坂展人 「続・いじめの光景:こころの暴力と戦う!」 (集英社文庫)
「いじめの光景」の続編は、前編から1年半後の1995年に出版された。その間にも、愛知県西尾市立東部中学校2年生の大河内清輝君がいじめを苦に自殺した(1994年11月)。続編では、大河内君の遺書を丁寧に読み直すことからスタートする。そして、正編「いじめの光景」へ寄せられた手紙やアンケート、著者が持っていたテレビ番組での、いじめ経験者へのライブインタビューなどを見渡しながら、「鹿川君事件」以来、学校の状況の変化に伴うように変化してきたいじめの実態を追いかけ、手紙やアンケート、インタビューから学校が抱える問題性を指摘し、「文部省と学校への提案」を示す。
 例えば、学校は画一化指向や、閉鎖性を強める性格を持っており、例えば制服(標準服)や鞄や校舎の全国的な統一性などをその性格を強めてしまい、時には体罰やいじめなどを促すきっかけになってしまうことを指摘する。


2008/01/12(土) 
保坂展人 「いじめの光景」 (集英社文庫)
この本は、「いじめ」という、この当時とりわけ取り沙汰されるようになった学校で起こっていることを描き、その渦中にある子どもたちへのメッセージを発しつつ、学校へのある種の批判と要求をする本だった。
 この本を初めて読んだのが中学生の頃だった。こうやって学校批判がなされているのを初めて読んで、いろいろな意味で驚いた。インタビューや文書や現場取材などを交えてリアリティをもって書き上げていく手法への驚きでもあったし、学校という現に私自身もそのなかに居て生活している、まさにその場を誰かがこんな風に否定的に言ったり、問題点を指摘したりしているということにも驚いた。それまで、学校という場のいろいろなことに驚いたり、不思議に思ったりすることはあっても、それが肯定や批判、擁護というかたちで表現されうることを知らなかったからだった。

■「トーキング・キッズ」に寄せられた生の声
 保坂展人は、中学校時代の学校批判活動がもとで1972年から内申書裁判原告となった。校内暴力、非行やいじめなどの学校事件の取材を行い、1982年からは雑誌「明星」にレポートを連載するほか、1990年からいじめに悩む子どもたちを対象とした「トーキング・キッズ」というテレフォンサービスを開始する。そのときどきの学校での子どもたちの悩みや苦しみが、手紙や電話での伝言のなかから筆者に見えてくる。
 1980年代半ばから学校の問題として社会で大きく取り上げられ始めたのが「いじめ」問題だった。1986年、中野富士見中学校2年生の鹿川裕史君がいじめを苦にして自殺した。「いじめの光景」(1994)は、「鹿川君事件」とその裁判の取材や、著者である保坂のもとに寄せられた子どもたちの肉声や手紙をまとめ、学校で起きている「いじめ」の実態を描き出そうとしている。そして、1990年代のいじめを苦にした子どもたちの相次ぐ自殺を受けて、いじめ緊急救援対策を提案して締めくくった。
■「学校の問題」の構図
 正編と続編の主張は大きく変わらない。いじめの実態を紹介し、それの打開の道を探ることを狙っている。いじめる側には暗い快感が、いじめられる者の大きな傷が与えられ、いじめの先には死が待っていることを、いじめる側といじめられる側の両者に指し示し、いじめの循環から生きながらに抜け出ること、断ち切ることを応援する。
 同時に、広がりつつあるいじめに、あらゆる意味で多分に学校が加担していることを指摘する。著者の主張の底流には、学校は閉鎖的な場であり、そこが子どもに対する態度を変えながらも、結局は子どもを圧迫している、という構図があり、それを成り立たしめた経緯には次のような流れを見ている。
 いじめが学校に深く根を下ろした背景には、校内暴力が吹き荒れた時代以来の学校の変遷が大きく関与していると考える。吹き荒れた校内暴力を一掃するために、非行の芽を摘もうとして、学校は子どもたちに体罰を与えることを黙認し、さらにそれが問題化すると厳しい管理を行うようになった。非行や校内暴力といったかたちで子どもたちの不満が顕在化することはなくなったが、そのかわりに表に出てこない子どもたちの間でのいじめが広がるようになった。管理が画一化指向を生み、同時に子どもたちのストレスをやり場のないようにしたという。
■括弧で括る
 これを初めて読んだ当時の衝撃はそれとして、今は、「保坂さんという人はこういう風に言ってましたよ」というように、この本に描かれた構図やストーリー、主張を括弧で括っておこうと思う。今、学校を訪れ、そこで過ごしている私が、この本の内容をそのまま鵜呑みにするわけにはいかない。


2007/10/09(火) 
「月曜日の水玉模様」 加納朋子 (集英社文庫)
他の本を読んでいるときでも、ふとひとつのフレーズが頭をよぎることがある。
「唾棄すべき、そして愛すべき私たちへ。」

■唾棄すべき、そして愛すべき私たちへ
このフレーズをどこで見かけたのだろう。駆られるようにして本棚を探し、心当たりの本をめくった。それが「月曜日の水玉模様」だった。このフレーズは、実はこの本の解説のタイトルに掲げられていた。解説者は西澤保彦。妙にそのタイトルと最初の数段落だけが妙に記憶に刻み込まれていた。この解説の著者は、最初の数段落は旧約聖書の一節を引きながら(またこの一節がとてもいい)、著者の「眼差し」について語り続ける。

解説者は著者の眼差しを、「唾棄すべき、そして愛すべき私たちへ」という言葉に託して語りながら、さらに「世界を鳥瞰する眼差し」と呼ぶ。しかし、本当にそうだろうか、とちょっとだけ首を傾げてしまう。

加納朋子は、確かに「日常の謎」の作家で、清濁併せ呑んで人と日々を描き続けようとする。それを「世界を鳥瞰する眼差し」と呼んでよいものか。その視野には確かに見晴らしが良くて、わたしとあなたの境界を越えていく。しかし、それはどこまでも私たちの地上にあって、地上での嘆きや喜びや悲しみをそれ以上でもそれ以下でもなくしっかり見据える眼差しではなかったのか。

解説者は、神が人の心に授けたという「永遠を思う心」(作者による聖書の言葉の引用によれば)を作者の眼差しに見た。けれども、それは同時に、聖書の同じ節にあるように、決して神の視座に立つことができる心ではなかった。人は人として「永遠を思う」。ただそれだけなのだろう。

と、解説者の言葉に少し首をかしげながらも、解説者の思惑どおりではないかもしれないが、日々の時々で、また、あるとき何かに当面したときに、このフレーズが、ほろり、とどこからか零れ落ちてくる。道を行くとき、通り過ぎる家の窓から零れ落ちてくる音楽が耳に入ってくるように、微かに、でも確かに、このフレーズは私を訪れる。

こういう、零れ落ちる音楽のような言葉が、いつかまた、訪れてくるといい。



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