きのこのへや

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2011/02/20(日) 
「パーク・ライフ」 吉田修一 (文春文庫)
ひとつひとつのささやかなことがらの描写にはっとしたり、どきっとしたりしているうちに読み終わってしまった。
ささやかなことがらの累積が命のような話で、それをひとつのストーリーとしてまとめたり、断定することは無粋だな、という気がする。そもそもそんなストーリーや骨子と言って、何があるのだろう、という気もする。

最初の五行から、魅惑的。読後感は、気になるとさわやかがないまぜ。


2011/02/14(月) 
「空気の教育」外山滋比古(ちくま文庫)
「空気の教育」というタイトルで、先週紀伊国屋の売上ベストにランキングされており、おや、おや、そんな本があるならば、さっそく読まねば、と思って買いに行った。

 買って少々拍子抜け。「空気の教育」は8ページ分だけだった。全般的にちょっと気持ちが前のめりな教育にまつわるエッセイが並んでいる。妥当な話も少なからずあるが、懐古趣味のために台無しになっているという気がして仕方がない。本として読むならば、もう少し冷静さと情熱のようなものの危ういバランスの中で、丁寧に話しているものが読みたい。とりわけ教育論、学校論ならばなおさらのこと。こういう話ならば、学校論・教育論では読み飽きたなあ、という感じ。思考の整理学の方がよかったな。手に取らされたのがちょっと悔しい。

…などとと思っていたら、本人が、あとがきに次のようなことを書いている。
「 かつてはどこの家庭でも、それぞれの家風という風が吹いていた。学校には校風があり、企業にも社風、土地土地には気風があって人々を感化したものである。戦後、気がついてみると、そういう風がいつとはなしに消えたけれども、気づく人も少なくて平和である。
 この本は、消えたその風をとりもどしたいと考えて書いたエッセイ集である。人を育てる方々の参考になれば幸いである」(p221)
はっきりと本人が懐古しているというのだからもうしょうがない。
 しかし私は、彼の言うことを真に受けるならば、彼が言うところの「風が途絶えた・平和」な世界に生きていて(それは彼も同じくで、社風の途絶えた今の会社を通じて本を出しているし、それ以外にやっていく道はないのだけれども)取り戻すも何も、そもそも経験したことのないものを無いところから始めろ、風を起こせ、起こすべきだ、とこの本を通じてせきたてられているようなのだから困った話だ。それに参考になりうるものが、懐古調でよいものなのか。

もうちょっとゆっくり、彼の懐古とこれからさきへのまなざしの向け方を読んでみようと思う。


2011/01/15(土) 
「初恋」 トゥルゲーネフ/沼野恭子訳 (光文社文庫)
残念ながら、他人にお話しておすそ分けしてあげられるほどの劇的な「初恋」は、自分には無い。
仮にあったとしても、トゥルゲーネフの「初恋」に較べたら色あせちゃうでしょう、ということで本題。

トゥルゲーネフの「初恋」を新訳で読みました。実は初読。
「初恋」をテーマに、今で言う「ガールズトーク」ならぬ「ボーイズトーク」をしようよ、と宿屋のオヤジが持ちかけたものの、皆話すほどのことはない、たったひとり、ウラジーミル(推定40歳)のみが、なにか生涯に一度きりの恋、と思うような初恋をしたらしい。
じゃあ、それを聞かせてよ、と乞われて、主人公のウラジーミルが、集った人たちのために書いて聞かせた、自分の初恋、初恋の相手の恋に纏わる記憶。

乞われてウラジーミルが2週間という時間をかけて書き出されたものからは、昔を思いだすという作業以上の仕事を課したことが伺われる。その幼い思い出を、ゼロから徹底的に話しなおす、という作業をしていた。2週間の仕事は、どれほど身を切るものだっただろう、と思いを馳せ、また、これほどに永遠を思わせる光景に彩られた「初恋」の経験がある人はなんだかんだ言って幸いなんじゃないかと思ったりして、余計に切なくなる。

筋書き以上に一つ一つのシーンとその書きぶりに、初恋のせつなさがにじみ出る。


2010/10/21(木) 
大出晃・坂本百大監訳「現代の科学哲学」(誠信書房)
1967年の本。巻末の「科学哲学入門」(坂本百大著)は、16ページでものすごく基本的なところをシンプルにまとめた内容になっている。本文は、科学哲学の連続講演のテキストの翻訳。講演者も翻訳者も、有名どころの名前が連なっている。教育/11B/177


2010/10/03(日) 
門井慶喜「おさがしの本は」(光文社)
 市の図書館のレファレンスカウンターに座っている主人公が、本を探し、図書館存続のための言葉を探す。

 本探しの醍醐味がなんども繰り返し味わえるというところが大変美味しい。そこだけであと数回楽しめそうな本です。


2010/10/02(土) 
「告白」 湊かなえ (双葉文庫)
「娘は事故で死んだのではありません。このクラスの生徒に殺されたのです」

もうこの夏に何度となく聞いちゃったこのフレーズ。
ようやく読みました。映画は結局見に行けず。

語り手を変えながら出来事の周りをぐるぐる回るが、どこにたどり着けばこの出来事の核心に迫ったと言えるのか、だんだんわからなくなってくる。最後まですっきりしない、ぶっつり終わる話だった。


2010/10/01(金) 
「荒地の恋」 ねじめ正一 (文春文庫)
大きな作品。

荒地派の「詩人」北村太郎は、53歳まで朝日新聞社で働きながら、細々と詩を書いてきた。寡作の詩人だった。

辻征夫も対談で、詩を書くから詩人なんだ、と言っていたが、そこから言うと北村太郎はこの時まで、ほんとうにかろうじて詩人、だったのかもしれない。しかし、53歳で親友の妻と恋に落ちたとき、ようやく


2010/09/26(日) 
伊澤雅子(文)平出衛(絵)「ノラネコの研究」(福音館)
主人公のネコを決めてその後をこっそりついていって、ネコが一日何をしているのかを調べるお話。あるネコは一日18時間も寝てたという。ということは18時間もそれを見てた人がいるということだ。そのことになんだか嬉しくなる。


2010/09/20(月) 
池澤夏樹 「スティルライフ」 (中公文庫)
「スティル・ライフ」「ヤー・チャイカ」二編収録。「スティル・ライフ」の最初の2ページに、この二つの物語の端的な姿が現れていると思う。君の中の広大な宇宙は、たぶんきっと、君の周りの世界に呼応しながら、しかし同時に独立して動いている。


2010/09/15(水) 
ケラー「奇跡の人:ヘレンケラー自伝」(新潮文庫)
原題 The Story of my life (1903)。

 ヘレン・ケラーの話は、いろいろな形で幼いころから話を聞いてきてきた。絵本や伝記のかたちでたくさん紹介されている(「ガラスの仮面」にも「奇跡の人」が出てきた、壮絶なレッスンがよみがえってくる…)。でも、意外にも、その自伝を読んだことはなかった。
 この人の経験について、三人称で話しうる範囲には限界があるのかもしれない。殊にわざと子どもに照準を合わせて単純化され、幼稚化されたような話し方では。彼女の自伝(の翻訳)は、小学生でも十分に読めるものになっている。こっちが取り上げられないのはなんだかもう、本当にもったいないなーとつくづく思った。


2010/08/08(日) 
「生物から見た世界」 ユクスキュル&クリサート (新思索社)
環境世界について話そうとするユクスキュルの「生物から見た世界」は、冒頭から眩暈の連続だ。

ユクスキュルは、第一章の頭から、突然ダニについて話し始める。
ダニの受容器が受け取るものと、実行器が為しうることから、ダニが見ている世界の姿が見えてくる。ダニが見ている、と言っても、ユクスキュルが問題にするダニに目はないから、ダニからの視覚的な「見え」が問題にされているわけではないのだけれども。

小さなダニの世界(Umwelt)について、ユクスキュルはただひたすら、厳密にダニを調べ、ダニの実験をすることから言えることだけを述べるのだけれども、それによって織り成されたものに、私たちは一瞬ダニの世界が現に開かれ垣間見たような気がして、眩暈すら感じる。

「世界について物語る」ということ、「世界について話し始める」ということに関して、これに匹敵するようなものは、実験研究においても、また「物語」を方法とする研究群にも、ほんとうにわずかだ。
――今こうしてここに居る、そういう事実を高らかにうたう、そういう道筋を模索している。


2010/01/07(木) 
木村敏 「自己・あいだ・時間――現象学的精神病理学」 (ちくま学芸文庫)
この本の解説にて、野毛啓一が木村敏の考察の歩みを3期に分けて整理してくれている。今後木村敏の著作を読むときの補助線になりそうなので簡単にメモ。
第一期:「あいだ」論の時期 臨床経験を基盤にして「あいだ」という鍵概念が提起され彫琢される時期。主要著書・著作:「自覚の精神病理」「人と人との間」「分裂病の現象学」など。
第二期:「時間論」の時期 自己と時間との根源的なかかわりを軸にして、木村人間学が全体像を示し始める時期
  かぎ概念として「アンテ・フェストゥム」「ポスト・フェストゥム」などの時間概念が提起される。主要著書・著作:「自己・あいだ・時間」「直接性の病理」「分裂病と他者」など
第三期:「生命論」の時期 自己のあり方が生命という大きな流れの中に位置づけられ、ヴァイツゼッカーの議論を踏まえつつ「主体性」とのかかわりにおいて捉えなおされる。主要著書・著作:「生命のかたち/かたちの生命」~
 本書は、この三つの時期で言えば、第二期に位置づく。なるほど、第一期のもの(「哲学研究」所収の「精神分裂病症状の背後にあるもの」)に比べると、フッサール、ハイデガー、西田幾多郎らの論考との折り合いがきちんとつき、その一方で精神医学の全体の概観にも見極めがつくようになっていて、そのなかで自身の主張のポイントも明確になってきて深化している。
 第IX章の「分裂病の診断をめぐって」は、統合失調症を抱える人に出会う機会のない私にとっては、一連の統合失調症診断面接に関わる論文を読む上で必要としていた内容だった。ただし、「内的生活史」を診断において重視しようとする木村の主張が漠然としており、その妥当性についても充分に詰めた論述がないので、全体を通して一番わかりにくい内容になっている。
 第VII章の「精神医学と現象学」は、現象学的直観診断を再評価・解釈しなおすという論旨で木村の「あいだ」論が展開される。(かきかけ)

「アンテ・フェストゥム」「ポスト・フェストゥム」などについては、今の課題ではないので後回し。


2009/12/28(月) 
「木村敏著作集1――初期自己論・分裂病論――」 弘文堂
木村敏の初期のころの著作集。今回読んだのは、1965年の「精神分裂病症状の背後にあるもの」という雑誌「哲学研究」に発表された論文。「あいだ」論の芽生えを見届けることができる論文だが、途中で議論がぶっとぶ。1980年代の論文が、再度同じ内容に触れているようなので、こちらに期待。


2009/12/28(月) 
5章(診断)-Ⅰ「伝統的診断」(鈴木 茂) (臨床精神医学講座「精神分裂病Ⅰ」)
統合失調症の診断のなかでも、特に臨床診断に関わる伝統的診断に限定して議論した節。単なるテキストと思いきや、著者の丁寧な整理と考察が重ねられていて、議論として読んでも充分面白い。伝統的診断と操作的診断の関連や違いなどがよくわかって、頭の整理にもなった。


2009/12/27(日) 
「現象学と精神科学」 荻野恒一 (世界書院)
 ここ1,2週間、あるテーマに沿って精神病理学の本を読んでいる。荻野恒一の論は、医師と患者のあいだで起こること、という範囲を大きくはみだして、大上段にものをいうことはない。主張のポイントだけを見れば「人間学的な態度」という範疇を超えはしないが、精神医学の「現象学的」であるという性質について、要を押さえたかなりつっこんだ理解を示してくれている。この人の紹介する患者との付き合いの例はとても魅力的なものが多い。


2009/12/27(日) 
「こころのありか:分裂病の精神病理」 松本雅彦 (日本評論社)
図書館の配架中に発見して読み始めた。
ていねいに、ていねいに、人と向き合いながら考えた言葉が並んでいる。
しんしんと響く言葉がいい。


2009/09/30(水) 
あんなおぢいさんが作ったのかと
あんなおぢいさんが作ったのかとおもふなかれ君らの声を歌にしたまで
土岐善麿

おぢいさんは子どもと割合近いところに居るようだ。「君らの声」が聞こえてくるような、そして、子どもたちが、このうたとその作者である自分を見たときにどういう表情をするのか、概ね想像が付くくらいには。そして、子どもたちに少し照れて、笑ってさらりと返す、この言葉。
ざっくばらんな言葉かけで、気持ちの良い風の吹くような歌。

大岡信「折々のうた」から。


2009/09/25(金) 
顔を寄せ合ううた、二つ(大岡信「折々のうた」より)
初恋や燈籠によする顔と顔 炭太祇

江戸時代の発句。
…だと思えない現代的な感覚を歌った人として紹介される炭太祇。初々しい、明るさがある。太祇には「ふらここの会釈こぼるるや高みより」という句もあった。季節は春、これもまた、明るいうた。いろいろ背景を抉り出して、これらの句の明るさを打ち消すような解説を付する人もいるようだが、句との出会いに開かれる、この明るさ、初々しさ、若々しい経験はまちがいないように思う。



憂きことを海月に語る海鼠かな 黒柳召波

これもまた江戸時代の句
なんともいえないおかしさがある。顔と顔を寄せ合う初恋の二人から連想して、種を超えて顔をよせあう(わけではないかもしれない)二匹の句を引いてみました。


2009/07/03(金) 
「わたしの先生」 岩波書店編集部編 (岩波ジュニア新書)
「わたしの先生」には、12人の「人生の先輩」がそれぞれの「先生」にあたる人、や事柄を紹介している。以下著者12名とタイトル。
1 人生の師,四つの教え 水野俊平
2 世界への扉――語学と仲良くなりたい人へ 三宮麻由子
3 微笑み,痛み……すべての人が先生 アグネス・チャン
4 人は諦めさえしなければ何でもできる ピーター・フランクル
5 師は兄,美の先生は北斎 何森 仁
6 二度目の見習工時代 小関智弘
7 今西先生の思い出 五百沢智也
8 動物行動学へのみちびき 日高敏隆
9 仲間とともに,高めあう 茂木清夫
10 一日の師をも疎んずべからず 田沼武能
11 戦時のめぐりあい 伊波園子
12 「自然」と「病気」が人生の師 河合雅雄
 あっ面白そう、と思って読み始めたのが、日高敏隆のエッセイ。動物を好きで仕方がない(いろいろな文章や訳したものからも、好きっぷりが分かる)日高敏隆さんが挙げる「先生」とは何だろう、誰だろう、と思った。
 日高敏隆さんが挙げた先生は全部で5人。ティンバーゲン、ローレンツ、米丸三熊(小学校の先生)、内田昇三(高校の動物学の先生)、八杉竜一(生物学)。特に「内田先生」の逸話が面白い。「内田先生」の動物への好奇心は、日高敏隆さんの動物好きに拍車をかけたというだけのことはあった。
 高校の生物部で飼っていたオオサンショウウオを、生物部が死なせてしまう。日高敏隆さんは、それを大急ぎでホルマリン漬けにする。生物好きらしい振る舞いである。日高さん自身もそう思ったらしい。けれども、内田先生は「ホルマリン漬けにした」と聞いてとても残念がる。
「漬けちゃったのかい?漬けちゃったのかい?」
 もどかしがる内田先生。どきっとする日高さん。
「ホルマリンじゃいけなかったのですか?」
――処置が適切ではなかったのでしょうか?と尋ねる日高さんに、残念な内田先生は答える。
「だってホルマリンに漬けたら食べられないじゃないか!」 
 そのころ、内田先生の指導の下で解剖と称していろいろな生き物を焼いたり煮たりして食べたのだという。どうすると美味しいか、食べてはいけないのはどこなのか、生物のいつの段階なのか。内田先生の好奇心はとめどない。
 生物を知るとは、生物というものを理解するとは、こういうことであってもいいはずなのだ。いや、それ以上に、生物に対してまじで向き合う態度として、内田先生のあり方は本質的だ、という気がする。


2009/06/29(月) 
「花まんま」 朱川湊人 (文春文庫)
前から読もうと思っていた本。偶然文庫化したものを本屋で見つけて、読み始めた。

 舞台は大阪、時は少し前にさかのぼる。浅田次郎の「鉄道員」が東京の「ノスタルジック&泣き本」ならば、朱川湊人は大阪のそれにあたるかなあ、と思った(ちなみに二人の出身地を調べたら、どんぴしゃでした。浅田次郎は東京生まれ、朱川湊人は大阪生まれ)。子ども時代の不思議な出来事をつづる短編集だった。読者をノスタルジックな気分にさせて、泣かせる気に満ち満ちている。もう、そういう気分と意図が丸見えなんだけどこれほどまで「ほーら懐かしいだろう、泣きたくなってきただろう」と詰め寄られたら、笑うしかない。舞台が大阪、というのが、これまた説得力をもつ。

ちなみに浅田次郎も朱川湊人も、直木賞受賞作家。


2009/06/12(金) 
「結婚しなくていいですか。:すーちゃんの明日」 益田ミリ (幻冬社)
新聞で見かけた、話題の漫画。
じわーっとたんたんとしていて、よかった。


2009/06/11(木) 
「もも日和 0・1・2歳」 松井文子 (メディアファクトリー)
 お母さんが、生まれてきた「ももかちゃん」を生後3ヶ月から毎日描いてきた絵日記。子育てのどたばたや苦労やわが子のかわいらしさをことさらのように綴る子育てエッセイや子育て漫画というのは多い。けれども、この本は絵日記だからか、子育てと子どもが育ち行く姿を淡々と描いていて、それがとてもいい。どたばたも、おもしろさも、みんな静かにひたひたと伝わってくる。

 きゅーと泣いていた赤ちゃんの「もも」は、なかなか活発な女の子になった。2歳(3歳に近い)って、すごいね…。


2009/06/10(水) 
「猫の品格」 青木るえか (文春新書)
最近、ひそかに評判を呼んでいるらしい新書本。帯には「品格ブームに弱弱しく意義を唱える」とあった。

猫を見れば、飼っている人のことがわかる、という趣旨。
作者がネコラブすぎて、猫にまつわるいろいろに対して距離感を見失っている。ちょっと怖い本だった。もう少し猫らしく、品格を語っていただきたい、なんて思った。


2009/05/03(日) 
「ひとがた流し」 北村薫 (新潮文庫)
grp0503233357.jpg 96×128 7K表紙のおーなり由子の絵が単行本と違った。セーラー服の女の子が3人、寄り添うようにして立っている。ストーリーを思い出して、胸をうたれた。よくぞこの表紙を。
――と、思ってしまい、単行本ですでに買っていたのに、文庫本でも買っちゃった。

本当は新聞連載時の挿絵を熱望していたのだけれども、残念ながら文庫本にも載っていなかった。(こうなったら、縮刷版のコピーを切り抜くか!?)

すでに文庫本になっている「月の砂漠をさばさばと」は、「ひとがた流し」の前の物語(特に正続の関係にはなっていない)。さきちゃんとお母さんの「それから」に出会えるのも嬉しい。大好きな物語。どちらも宝物のような物語だ。


2009/04/02(木) 
【詩】石原吉郎 「花であること」
花であることでしか/拮抗できない外部というものが/なければならぬ
で始まる詩。

三木卓の「詩の玉手箱」から。(ひまごびきになるらしいので、もともとの出典を示すと、『サンチョ・パンサの帰郷』という石原吉郎の詩集が一番最初の典拠)

三木卓も、それからほかの批評も、花は人間精神の喩えだと指摘しているが、なんだかその指摘がものすごく無粋な結果をもたらしている。このうたが歌い上げたことは、「花」でしか言い得ない事実でなくてはならない。この詩は、これ以上でもこれ以下でもすべてが台無しになってしまうような、ぎりぎりのところにきちんと踏みとどまっている。


2009/04/02(木) 
【俳句】炭太祇 ふらこゝの会釈こぼるゝや高みより
北村薫的な表現で言えば「まさに人生の春」のただなかにある、そういう瞬間がここにある。花の咲き誇る中、ぐいと高く漕ぎ上がった「ふらここ(ぶらんこ)」の上から、ふっと笑みがこぼれる。微笑みかけられ、微笑みかえす、至福の瞬間。
現代の句かと思いきや、江戸時代中期の句でした。

作者は江戸時代中期、蕪村の七つ上の俳人炭太祇。季語は「ふらこゝ」で春。


2009/04/01(水) 
「望郷と海」 石原吉郎 (筑摩書房)
初版本(古本)より文庫版(古本)のほうが価格が高いという、なんだかすごい本。

 「戦後60年<詩と批評>総展望」で、戦後60年間で時代ごとに強い影響をもった詩論をざっと読んでみて、「詩(を書く俺たちのための)論」があまりに多いことに驚いた。私は詩人たちのコミュニティに親しみたいのではなかった。もっとこう、「詩のための言葉」、「書くことと言葉」、生きていくことと言葉について深く考える言葉を詩人たちの口から聞きたかった。
 辻征夫は、詩人は詩を書く限りにおいて詩人なのだ(したがって詩を書くことをやめれば、その時点でいかに詩を多く生み出していたとしても彼は詩人ではない)、というような、当たり前のようでその実とても厳しい言葉を吐いていた。その言葉と同様に、詩人は「詩人」同士で徒党を組むことで自らをそれとして同定することは出来ないはずだ。詩を書く限りにおいて詩人であるような人たちが、詩について語るとするならば、それは自らの作品について、ないし自らが詩を書くという行為について語ることでしかない。少なくとも、最終的にはそこに論のすべてがさし返されてくるはずではないか。
 「戦後60年<詩と批評>総展望」に掲載されたもののなかで「詩(を書く俺たちのための)論」ではない文章が、石原吉郎の論だった。ほぼ唯一といっていい。「俺達のための論」ではないためか、石原吉郎の論は掲載されながらも総展望のなかで一切触れられずに終わっている。容易に詩一般の論として総括できない、固有の位置を持っており、鋼のような強さがある。

 石原吉郎は、詩でも文章でも、たったひとつの事実を繰り返し述べている。それは、石原吉郎自身が経験したシベリア抑留の日々に端を発している。彼はシベリアから帰還して24年、詩を書き、生き続けたが、その生涯はたぶん、シベリア抑留の日々に捕らえられたままだったのではないか、という気がする。(以下書きかけ)


2009/03/01(日) 
戦後60年<詩と批評>総展望
北川透、瀬尾育生、城戸朱理による討議を軸に、1945年から時代ごとに強い影響をもった詩論を収載。28の歴史的な批評に映し出された現代詩60年の試行。

歴史を貫く詩の原理 / 孤独への誘い / 現代詩とは何か(抄) / 民衆と詩人 / 現代詩試論 / 原点が存在する / 戦後詩の成立 / 前世代の詩人たち / 世界へ! / 戦争責任論の去就 / 蒼ざめたる牛 / シュルレアリスム詩論序説 / 韻律・撰択・転換・喩(抄) / 時代を超える論理 / 手持ちの材料と道具の点検 / 感受性の祝祭の時代 / 言語表現をこえて<書くこと>の暴力へ / 沈黙と失語 / 仮構詩論へ向かうノート11片(抄) / <指示性の根源>について / 行為としての文学 / 技術の威嚇 / 気風の持続を負う / 修辞的な現在(抄) / 詩歌の「うたげ」と「孤心」 / 多方通交路 / 切断と接続 / わからなさについて / 生成する空白 / 詩は死んだ、詩作せよ / 詩は無力であるか / 戦争詩の方法 / 服喪者たち、独身者たち、巫女たち / 新たなる単独性 / 切断がある。


2009/02/12(木) 
「イティ・ハーサ」 水樹和佳子
その答えを求め続けると気の触れる問いがある
自分はなぜここにいるのか
何処より来たりて何処へと向かうのか
実に人はこの問いを忘れるために
人を愛し
この問いから逃れるために
神を求める
――SF作品。「問うこと・答えを求め続ける存在」が周囲を乱していく様が描かれる。


2009/02/12(木) 
「『わたし』とはだれか ほか」 河合隼雄ほか(光村図書)
 光村図書の国語の教科書に寄稿された河合隼雄の文章。ほかの誰でもない「わたし」がそこにいることに気づき、驚嘆し、問いとなる瞬間を描く。わたしもこの文章が掲載された教科書を使っていました。心をとらえて離さない文章でした。この文章が河合隼雄の手によるものだということは、つい最近知ったばかりです。縁があります。



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