きのこのへや

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2007/09/20(木) 
「ニッポンの猫」 岩合光昭 (新潮社)
写真集というものをあまり買わない。特に猫や犬の写真集は買わない。写真のよさがよくわからないのもあるし、猫や犬なら、自分のそばにいるナマの猫や犬を見たほうが楽しい。ナマの猫や犬は動くし、気分にむらがあって気まぐれだし、もうそれだけで充分、と思える。
 この写真集を買ったときは、猫にも犬にも話しかけてみる余裕すらなかった時期だった。毛玉っぽいものに触れてみたくて、ついうっかり買った。実は岩合さんの写真は、見ているこちらのほうがうわっと圧されてしまうことがある。写っている花や動物の生命の勢いが強すぎるのかもしれない。それがどうも苦手で、あまり手に取ったことがなかった。でも、この写真集はちょっと気になった。
 この写真集を眺めていて気がついたのは、ああ、岩合さんは本当に猫が好きだなあ、ということと、本当に動物とお近づきになれる人なのだなあ、ということだった。ゆっくり眺めていると、風景や動物たちの鮮やかさや勢いも、まんざらでもない気がしてきた。


2007/09/13(木) 
「もやしもん」 石川雅之 (講談社)
現在1〜5巻まで発刊のマンガ。

菌と菌が見える種麹屋の息子と、その友達とそのほかいろいろが農業大学で繰り広げるあれやこれやのお話。
菌がかわいい。そういう風に菌が見えて、菌が喋っているのも聞こえてしまう種麹屋の息子の才能がうらやましい一方、私にはその才能は要らないと思った(家の中の菌が見えたら、怖いことになる)。今度、10月からアニメ化するそうです。画面いっぱいにオリゼー(菌)とかセレビジエ(菌)とかが、「かもすぞー」とか「ばっきゃろい」とか動きながら喋るのかと思うと楽しみです。


2007/09/02(日) 
「光の帝国―常野物語」 恩田 陸 (集英社文庫)
 「球形の季節」に引き続き、恩田陸つながりで読みきった。以前、偶然にも高校時代の友人と同じ時期に読んでいたらしく、話が弾んだ覚えがある、そんな本。
 「に在であれ」という自戒から「常野一族」と名づけられた一族があった。この本は、分散して生きることを余儀なくされ、ひっそりと生きていく一族の人たちの物語だった。「光の帝国」という仰々しい名前からは想像もつかないくらい、静かなお話で、同時に壮絶な過去も思いやられる。あらためて引き込まれた。
 ちなみに恩田陸の作品で一番お気に入りは「木曜組曲」です。同タイトルで映画化されています。舞台にはならないのかな。


2007/09/02(日) 
「球形の季節」 恩田 陸 (新潮文庫)
ずいぶん昔に一度読んだきり、以来一度も読み返したことがなかった。おかげで本棚にあるのに、ストーリーを全く思い出せなかった。覚えていたのはただ、「学校」の物語で、「金平糖のおまじない」が出てきたことだけだった。久々に読んでみたいな、と思って読み返してみた。興に乗ったのはここ数日の話で、なかなか読み進まなかった。夏ばての所為だろうか。
■眠った町
 東北に、ある小さな町がある。のんびり安穏とした町で、そこに住んでいる人たちもまたのんびりした人たちばかりだった。皆、あまり外を知らず内側で満足している。町には4つの高校があってそれぞれレベルの上下はあれど、この町を出てしまえば「井の中の蛙」に過ぎないことは明白だ。町の内蔵している高校も、やはりどこか内側で完結している感が強い。
 よく言えば町がのんびりしていて、それ自身で充足している。悪く言えば内部完結して閉塞しており、町の外に興味を持たない。そんな風に見える町が噂と「金平糖のおまじない」の広がりのなかで、実はただごとではない凄まじいものを抱え込んだまま、ただまどろんでいるだけ(もしくは狸寝入りしているだけ)だということが露わになっていく。いつかこの町は目覚めて何かの猛威を振るうのかもしれない。「この町はのんびりしているのではなく、眠っている」という一貫して繰り返される言葉が面白い。ただごとではないものを抱えながら、平然と、安穏と毎日を過ごすその町とその町に住む人たちのすごさが見えてくる。
 この話は町が主人公の物語だ、と思った。
■学校の閉塞感と明晰な言葉
 恩田陸の作品は、学校の閉塞感や集団全体の意識が上手く描き出されているな、と常々思う。「六番目の小夜子」では「全校生徒で上演する舞台」の場面などは迫力満点だった。閉塞感や集団の意識が漠然と体感されるようなものなのに対して、一方で、その学校のただ中にあるアタマのイイ男の子や女の子が、学校を俯瞰するようにして「学校には閉塞感がある」「学校全体がイキモノのようだ」と明晰に、くっきりと言葉で言い切ってしまう。この言い切りが爽快なような、気持ちが悪いような、そういう感じがいつも付きまとう。


2007/08/23(木) 
「雨やどりはすべり台の下で」 岡田 淳 (偕成社文庫)
■「スカイハイツ・オーケストラ」
 中学1年生向けの国語の教科書(光村図書)に「スカイハイツ・オーケストラ」という物語が収録されていた。挿絵も綺麗で、物語自体もなんとも不思議で、とても好きだった。この本は、その物語の出典元になる。

■雨宿りして話すこと
 「雨やどりはすべり台の下で」というタイトルがいいな、と思った。スカイはいつマンションの公園で遊んでいた十人の子どもたちはすべり台の下で雨宿りをする。この雨がふしぎなのだった。マンションの住人の雨森さんという人が傘をさした途端、雨が降り出したのだ。自然と子どもたちの雨宿りの最中のお喋りは、ふしぎな住人、雨森さんのことになる。
 この始まりが、上田秋成の「雨月物語」の由来を連想する。少年少女古典文学館で高田衛(東京都立大学)がその題名の由来について、次のように解説している。
上田秋成は明和5年の晩春3月、「雨は晴れて月は朦朧の夜」に「雨月物語」を書き上げたという。雨の上がった月の出る夜に書き上げた小説は、同じく雨の日や夜の読み物であっていいという気持ちが込められている。
きっと、雨の日は、不思議なことを話すのにうってつけの日なのだ。そう思う。

■雨森さんの不思議
 雨森さんは不思議な人だ。ぶっきらぼうで、他人との付き合いを嫌がる人で、他人からの親切や感謝の気持ちすら受け付けない。ものすごく怖そうな人だった。けれども、子どもたちのさびしい気持ちや、他の子どもたちを「いいなあ」と見つめる切ない気持ち、伝えたいことが伝えられないもどかしさにふと立ち会って、ちょっとだけ心が晴れるようなきっかけをくれる。ほんとうは優しい人なんじゃないか?実はすごい魔法が使える人なのではないか?子どもたちの話が積み重なって、それは確信になっていく。

■ほんとうの魔法は
 けれどもほんとうの不思議は、雨森さんの不思議ではないのかもしれない。子どもたちが雨宿りした日は、雨森さんがマンションを立ち退く日だった。これも一つの魔法かもしれない。そして、雨森さんがマンションを出て行くそのとき、マンションの住人は雨森さんが受け入れてくれるプレゼントをこぞって準備した。雨森さんが決して嫌な人ではないことをみんなどこかで知っていて、雨森さんのことをどこかでよくわかっている。これはほんとうにすごい魔法だ、と思った。こんな風に周りの人たちと一緒にいられたら、ほんとうにいい。


2007/08/22(水) 
「黒鳥〜ブラック・スワン〜」 山岸涼子 (白泉社文庫)
「黒鳥」
演出家のパートナーの愛情が、才能のある美しい他のバレリーナに移っていく。そのことに気づいたバレリーナのマリアは、パートナーとの別れに際して、「黒鳥」を踊る。その踊りには、深くて激しい思いがこもっていた。
「貴船の道」
不倫の末に、相手の男の人の後妻となり、同時に二人の子どもの母になった女性の夢に夜な夜な現れる着物姿の女の正体とは。
「緘黙(しじま)の底」
沈黙する子どもと「わたし」の昔がかさなって、ようやく子どもの言葉が響きだす。子どもの沈黙は、今の「わたし」の沈黙でもあった。
「鬼子母神」
双子の兄妹に、母親は全く別の表情を見せていた。兄は母親のもう一つの表情が見えないゆえに、今も母親に絡めとられている。その様子を妹のまなざしが捉えている。

「緘黙の底」を除いて、いずれも女の人の情念はコワイ、と思う作品。


2007/08/18(土) 
「ふしぎな笛ふき猫〜民話・『かげゆどんのねこ』より〜」 文・北村薫 絵・山口マオ (教育画劇)
飢饉の今年もまた、年貢米をとられてしまう。年貢米に米を取られたら、この村は生きていけない。
かげゆどんは考え、何とかしようと代官と交渉しに行こうとした。かげゆどんの猫は、かげゆどんを上回って、お殿様に交渉しに行こうとする。ふしぎな笛とふしぎな猫と、その主のかげゆどんのお話。

山口マオの絵がゆるくてかわいい。特に、かげゆどんが縁側でため息をついている絵が大好きでした。文章を書いたのは、「円紫さんと私」のシリーズや「スキップ」「ターン」「リセット」などを書いた北村薫。


2007/08/12(日) 
【映画】「ガス燈」
監督:ジェージ・キューカー
製作年:1944
出演:シャルル・ボワイエ、イングリッド・バーグマン、ジョゼフ・コットンほか

 ロンドンで、ひとりの有名な女性オペラ歌手が殺された。娘のように育てられた姪のポーラはその痛手を乗り越え、歌手になろうと声楽を学んでいたが、作曲家のグレゴリーと恋に落ちた。婚約したグレゴリーの望みで、ポーラは相続したロンドンの家にグレゴリーと共に住み始めたが、身の回りで奇妙なことが起こり始める。
 じわじわとポーラが狂気へと追いやられていく様子が圧巻。緊張感がたまらなかった。イングリッド・バーグマンが綺麗でした。美人★


2007/07/22(日) 
「自虐の詩」 業田義家 (竹書房)
■でぇ〜い
物語は4コマ漫画で展開される。幸江は幼い頃から不幸なことに見まわれて続けている女の人だった。どうも不運で、やることなすことが思い通りにいかない。今の夫は、酒を飲んでは「でぇ〜い」と言ってちゃぶ台をひっくり返すし、父親は幸江の仕事場に現れて職場のお金をひっさらって遊びに出かけていく。

■愛すべき人たち
幸江のまわりにはいつもいろいろな人がいる。幸江を汚いもの扱いする先生や同級生たち、無視する同級生たち、幸江を取り巻く不運におびえる同級生たち、ただ淡々とよこにいる友達、お節介と覗き見趣味のご近所のおばちゃん、惚れた弱みに付け込む町内会長さん、ちゃぶ台をひっくり返す同居人、お金を持ち出す父親…。
この本の解説で内田春菊も書いているが、この本に出てくる人たちの中にはとんでもないことをしでかす人や、ろくでもない人もたくさん居るけれど、皆正直で裏表がない。愛すべき人たちだ。

■人生とは
不運に見舞われる幸江の物語は、少ししんどくて、読むのが少しつらいところもある。それでも読めるのは、そこにいる人たちが裏表の無い人たちであって、幸江の人生もまた不幸だと断定できないような生き様だからだろう。現に幸江は幼い頃を回想し、自分の不幸を思い出しながらも、最後にはこう言い切る。

「幸や不幸はもういい どちらにも等しく価値がある 人生には明らかに 意味がある」

幸や不幸にがんじがらめにされない、人生への希望がある。
最初に読んだのは高校生のとき。高校生の先生から教えてもらった本だった。
★この秋、映画化。→【映画「自虐の詩」HP


2007/07/19(木) 
「明恵 夢を生きる」 河合隼雄 (講談社+α文庫)
はじめて読んだのは高校生のときだった。いまいち読みきれず、難解に感じられることも多かったが、とにかくそのときに読んだ。本書で展開される明恵の「夢記」の解釈と明恵の生涯の夢と現の交流の様子の理解ももちろんだったが、この「夢を生きる」という考えに触発され、高校生のころから夢の記録をとるようになった。
 明恵は鎌倉時代初期の華厳宗の名僧である。上下貴賎の信望を集めたと言われる僧だが、19歳の頃から生涯にわたって夢を記録し、それを自ら解釈した僧としても有名である。

■「夢を生きる」とは
夢の解釈というと、何か占いじみたものを連想する人も居るかもしれないし、ユングやフロイトの夢解釈というのを連想する人もいるかもしれない。この著者自身、ユング派心理療法を日本で確立した人でもある。河合隼雄によると、明恵は夢解釈を行った、というよりは、むしろ「夢を生きた」といったほうが的確だという。明恵の夢の解釈とは、その当時の仏教などに由来する夢の解釈の方法や説に沿って解釈をすることではなく、夢と現を行き来しながら、生涯を深く生きることそのものだった(ユングの考え方はむしろこのような実践そのものなのだと河合隼雄はいう)。
 したがって、「夢を生きる」とは、自分の夢を傍観者として「見る」のではなく、それを自ら進んで「体験」し、深化して自らのものとする態度(p44)そのものであった。

 奇しくもこの文章の下書きを作ったその日に、河合隼雄さんが亡くなった。高校生にも読める文章で本を書く、と言っていた河合隼雄さんの意図のままに、わたしも高校生の頃にこの本を読んだ。そして、自分なりに夢を生きつつある。


2007/06/27(水) 
「術語集」 中村雄二郎 (岩波新書)
★読書中


2007/06/19(火) 
「生物学個人授業」南伸坊×岡田節人 (新潮文庫)
シンボーさんの個人授業シリーズ。

■簡単で本格的な生物学の本
 生物学のかなり広い範囲(発生生物学やゲノムや多様性や進化論や絶滅などなど)が網羅できる面白い本。内容は岡田節人さんの講義をシンボーさんがまとめ、さらに岡田節人さんがそれにコメントを入れるというかたちで展開していく。一見簡単に書いてあるようで、かなり本格的だ。

■生物学は素朴な問いに答える準備が出来た
 巻末についている〔文庫版おまけの講義〕のエッセイ「『面白い生物学』が戻ってきた」がかなり面白かった。科学論としても読み応えがある。生物学はそもそも素朴な驚きをそのまま反映したようなガクモンなのだという。そして今、その素朴な驚きをそのまま問いとしてぶつけ、それに答えるだけの準備が出来つつあるのだという。心理学研究などでも、素朴な問いはあまりにいろいろなものを含みこみすぎていて研究から答えることが出来ないと、よく言われる。だからこそ先行研究を概観して、より近い研究のなかでの問いの立て方を参考にしながら自分の研究を展開せよと言われたりもする。しかし、いろいろなものを含みこんだ問いに答えていく道筋もあるのかもしれない、と、このエッセイは教えてくれる。生物学においては基礎研究の積み重ねと、進化論や発生研究といったいくつかの大きな枠組みの融合がそれを可能にした(そこに一役買ったのが遺伝子研究だと岡田さんは言っている)。
 生物学って面白そうですね。きっと面白いんでしょう。ちなみに、このエッセイはAERAMookの「生物学がわかる。」でも読むことが出来ます。


2007/06/17(日) 
「科学哲学入門:科学の方法・科学の目的」 内井惣七 (世界思想社) 
科学とは何か、理論とは何か、説明とは何か、モデルとは何か。「科学」を自称する分野の本や論文をあたると、こういうひとつひとつの言葉に悩まされることがある。
この本は、「科学について哲学する」科学哲学をトピックス毎にまとめて概観する、科学哲学の入門書。トピックスは次の通り。

 1:科学と哲学 
 2:自然科学の方法 
 3:反証主義 
 4:科学的説明 
 5:理論、観察、測定 
 6:仮説の形成と確証 
 7:科学理論の変遷 
 8:科学の目的

 只今、科学論・メタサイエンスについてある授業で議論しており、どうしても必要を感じて読むことになった。日本語が怪しいことと、肝心なところできちんと言及できていない部分があるのが気になるが、科学哲学というカテゴリが出来る前からの科学論に相当する議論から現在の科学哲学までが広くカバーされているので、勉強しやすい。


2007/06/10(日) 
「ルバイヤート」 オマル・ハイヤーム (岩波文庫)
 11世紀ペルシアの科学者オマル・ハイヤームの詩集。読みました。空しいとか、悲しいとかのオンパレードでした。行ごとになんとなく染み入るところもあったのだけれども、いまいちよさが充分に汲み取れないまま、読み終えた。力及ばず。
 しかし、詩を翻訳するというのは、もうほとんどわけのわからない仕事のような気がする。よい訳詩とは何なのだろうと思った。ルバイヤートに関して言えば、フィッツジェラルドの定番訳も読んでみたい。


2007/06/07(木) 
「『からだ』と『ことば』のレッスン」 竹内敏晴 (講談社現代新書)
 竹内敏晴さんの演劇レッスンの内容を中心に、対話ということ、からだということ、ことばということへの考察を展開する。エチュードやレッスンを記述している部分の仕方が非常に独特で、イメージの世界を描くという方法を採っている。観客の存在もないし、そこに広がっているはずの舞台もかかれず、物語のようなその世界が描かれているということが不思議だなあ、と思った。けれども、あらためて自分で舞台で起きていたことを記述する段になると、結局竹内さんと同じ記述の仕方になっている。これはこのように描くほかないということなのか、どうなのか。疑問はまだ残る。


2007/06/07(木) 
「間の取れる人間抜けな人:人付き合いが楽になる」 森田雄三 (祥伝社新書)
■人付き合いが楽になりたいのか?
タイトルに「人付き合いが楽になる」と銘打っているけれど、特に人付き合いに悩んで手にとったわけではない。

――帯には「イッセー尾形の名演出家が教える『人をひきつける極意』」とあった。

 うわあ、ますます性質が悪い。残念ながら、特に人をひきつけようなどと狙って手に取ったわけでもない。
 イッセー尾形の演出を手がけている森田雄三さんの演劇ワークショップに出てきた。ワークショップで演劇っぽいことを経験できる、というのに留まらず、本当に最後に発表公演をするからすごかった。そのワークショップの試みが本になった、と聞いたから手に取ったのだった。タイトルを初めて見たときはちょっと苦笑いした。

■コミュニケーション論?演劇論?
 タイトルで「間の取れる人」と対極的な位置に「間抜けな人」が置かれているのがおかしかった。中身の文章も、妙な力が入っていないし、あまり説教くさくもないし、タイトルほどには啓発的でもないし、良い感じに力が抜けていた。ワークショップのときの力の抜けた感じとよく似たものがあっていいなあ、伝えようとしていることが文章にも体現されているようで、ああいいなあ、と思った。単純なコミュニケーション論でもないし、演劇論でもなく、どちらにも落ち着かずに実験的な位置を失わない。


2007/05/31(木) 
「哲学者エディプス−ヨーロッパ的哲学の根源−」 ジャン・クロード・グー (法政大学出版会)
★読書中


2007/05/27(日) 
「生物と非生物のあいだ」 福岡伸一 (講談社現代新書)
◆大きな問いに分子生物学の小さな積み重ねが搾り出すように答える
 この本は、「生物とは何か?」「生きているものとは何であるのか」という問いから始まる。ずいぶんと大きな問いだ。この問いに、あらゆる領域の研究が答えを与えようと試みている。筆者もまたその専門分野である分子生物学の領域やその歴史から、答えていこうとする。

 分子生物学の一分の隙もない説明や、その領域で見えてきた世界を書き表す語り口は、その説明の潔さ・美しさにも助けられてか、とても魅力的で「詩的」といってもよいかもしれないと思えるものだった。一方、その説明や研究を展開させてきた人間たちのドラマも描かれていて、それがものすごく人間臭い。本書はその両方を行ったり来たりしながら最初の問いの周りをぐるぐる巡っている。この落差が良いのやら、悪いのやら、と思う。時折読んでてげんなりし、しんみりし、分子生物学の「世界」の美しさに目を見張る。めまぐるしくてちょっと疲れた。

 「生物とは何か」という問いに科学が接近しうる時代だ、と言われる。本書もほかでもない、分子生物学という科学の一領域から答えていこうとするものだ。しかし、この領域でのその試みの成否はまだ決着がついていないといって差支えがないだろう。この本自体もまた然りだろう。そして、こういう大きな問いにどこまで科学の諸領域は接近可能なのか、その疑問に決着がつく日もまだまだ見えてこない。

 けれども、「生物とは何か」という大きな問いに対して、何の飛躍もなく、ただ今ある知見のなかで、答えのようなものを絞り出すようにして示している、その様を見届けることは私にとって元気が出ることで、やっぱり見届け甲斐があるな、という気がした。


2007/05/02(水) 
「ネコを撮る」 岩合光昭 (朝日新書)
■動物写真家、町を歩く。
 岩合光昭さんは野生の動物を撮る人だ。実はネコが好きらしい。そういえば岩合さんの被写体にはライオンもいたけど、それもネコ科だった。イエネコだってネコ科の動物だし、野生の動物だ。確かに。
 岩合さんはネコを撮るときに、よく町を歩くことが必要だという。ネコを探して町を歩き、ネコのあとを追って町を歩く。ネコと出会うためのお作法をわきまえて、ネコの声に耳を傾けながら、カメラを向ける。動物を撮るというのは、被写体を追いかけ、カメラで捉えることだと思っていたけど、なによりもまずその動物のフィールドを歩くことから始まるのだった。ネコを通して町が見えてくることも多々ある。そうやって町を歩く方法と、町で見届けたいろいろな事柄を岩合さんのことばで描いている本だと思った。
 最後に岩合さんのこの本のなかの名言は「顔が大きいね」。ネコ(特にオスのネコ)への褒めことばだそうでした。


2007/02/12(月) 
「学童保育:子どもたちの生活の場」 下浦忠治 (岩波ブックレット)
学童保育が、実は熱いテーマらしい。

学童保育が法制化されたのがつい最近ならば、消えつつあるのも最近のこと。学童保育というのがどういう経緯で成立し、今、どういう理屈でなくなりつつあるのか、そういうことが分かりやすく説明されている本。学童保育の場で働き続けてきた著者だからこそ見えてくる、学童保育の場の意味も、子どもたちのエピソードと共に示されている。


2007/02/10(土) 
「いわいさんちへようこそ!」 岩井俊雄 (紀伊国屋書店)
パパ(岩井俊雄)とロカちゃん(いわいさんの子ども)との“お喋り”が収められた本。チョキチョキぺたぺたやるお喋りってステキだな、と思った。ロカちゃんの思いをパパが形にし、パパが形にしたものをロカちゃんが膨らませる。

読むだけで幸せになる。写真でロカちゃんが作品を握ってにやーんと笑っているのを見ると、ついうっかりにや〜んと笑ってしまいます。ここ最近の幸せ本。


2007/01/22(月) 
「『ゲド戦記』の世界」 清水真砂子(岩波ブックレット)
清水真砂子さんは「ゲド戦記」の訳者である。そのほかにもマーヒーの「目覚めれば魔女」なども訳している。

このブックレットは訳者による「ゲド戦記」の解説なのだろうと思っていた。なんとなく触れたくないという思いがあった。「ゲド戦記」はメタファが自立的に動いている世界だと思うし、だからこそそれを解説されたり、意味を解釈されたりしたら、それこそ台無しだよね、と思っていたからだった。

恐る恐るだけれども、読んでみようと思えたのは、スタジオジブリの「ゲド戦記」HPに掲載された清水真砂子さんの言葉に素直にうなずけるところがたくさんあったからだった。実際に読んでみると、この人もまた、「ゲド戦記」というものの意味を説いたり、解釈したりすることがどれだけ「意味」を持たないことであるのかを知っている人だと気がついた。
ゲド戦記と絡めて他の作家の作品までも紹介されているのも魅力的。いい本でした。


2007/01/22(月) 
「さくらん」 安野モヨコ (講談社)
 実は安野モヨコの本を初めて読んだ。吉原のひとりの遊女の話。蜷川実花の監督作品として映画化されるらしい。極彩色(?)な感じがぴったりかもしれない。これは面白い。
 ちなみに、裏の広告を見て、朝放送されていた「シュガシュガルーン」も同著者の作品だったと知った。


2007/01/20(土) 
「はてしない物語」 ミヒャエル・エンデ (岩波書店)
幼い頃、布団の中にもぐりこんで、夢中で読んだ本だった。

ページを一枚ずつ繰る楽しさ、登場人物の名前に親しみ覚える嬉しさ、物語って何だろうという不思議。
二色刷りの本文や、絵の美しさ、そしてなにより表紙の美しさに、この本には迂闊に触れないと感じた。文章の随所の美しさにも目を見張った。「あかがね色」「幼なごころ」「パンを二つに割る」云々、ひとつひとつの言葉が目新しくて感動した。

最近、この物語のワンシーンをふと思い出すことが多く、久々に読んでいる。


2007/01/14(日) 
「ひかりごけ」 武田泰淳 (新潮文庫)
「人肉を食べた人の背後には緑金色の光の輪が現れる」、というモチーフが繰り返される。

■人間の極限状態を描き出す作品?
書評や本の紹介で、この作品は「人間の極限状態を描き出したもの」と聞いていました。けれども、実際に読んでみると、どうも「極限状態」が主題ではないんじゃないか、と思えてきた。
この作品で見え隠れするのはおおよそ人に関る「途方もない孤独の耐え難さ」のようである。人肉を食べてしまったその人は、極限状態のなかで「途方もない孤独」と直面するようになっていた。その人は、遭難の地においてあらゆる耐え難さを生き抜き、生還した後、「人肉を食べた」「食べるために他人を殺した」かどで裁かれる。

その人は、自分の孤独は他人の手で救われることはないのだとわかっている。だから裁きの場でも自ら自分を弁護するようなことは口にしなかった。しかし、裁判官や検事に問い詰められて自分の心情を話し始めたとき、堰を切ったように繰り返すのは「我慢しているのだ」という一言であった。自分の孤独を見て取ってくれる人がいる可能性に賭けて、裁きの場で叫ばずにはいられない。

「あなたには(光の輪が)見えない?いいえ、そんなはずはありませんよ。」
「そんな馬鹿なこと。もしそうなら恐ろしいこってすよ。そんなはずはありません。もっと近くに寄って、私をよく見なくてはいけませんよ。きっと見えるはずですから、いいかげんにすませることはできませんよ。もっと真剣に、見えるようになるまで、見なくちゃいけませんよ。」
「見てください、よくわたしを見てください」
(「みなさん、見てください」の船長の叫び続くうち、幕静かに下りる)


2007/01/07(日) 
「ハリー・ポッターと謎のプリンス」上・下 J・K・ローリング (静山社) 
ハリー・ポッターも大人になりました。
話も酷になってきました。

いやー、酷だよ。ほんとに。

謎のプリンスの正体が分かったので満足して眠れます。


2006/12/28(木) 
「顔」 横山秀夫 (徳間書店)
仲間由紀恵主演でドラマ化したこともある本。

鑑識課で似顔絵を描く仕事をしていた婦警の平野瑞穂は、ある出来事を境に鑑識課をはずされる。いらだち、後味の悪さ、忸怩たる思いを腹に、それでもあちらこちらの課に回されながら、なんとか頑張ってやっていこうとしている。
似顔絵、絵を描くこと、絵を見ることを通して感得されるものに触れて幸せな気分になれた。


2006/12/26(火) 
「冬のオペラ」 北村 薫 (中公文庫)
3部で成る作品だが、第3部は年末の京都のお話。
文中に出てきたお寺に興味をそそられ、先日の旅でも立ち寄ってきた。


2006/12/18(月) 
シリーズ現代思想の冒険者たち「ベンヤミン:破壊・収集・記憶」 三島憲一 (講談社)
まだ読みかけ。あちらこちらを拾い読みしているところ。
■ベンヤミンといえば
 ベンヤミンの本でぱっと思い当たるのは、プルーストに影響された「ベルリンの幼年時代」、パリのパサージュに関するメモから何かを書き出そうとした「パサージュ論」、アウラの議論で有名な「複製技術時代の芸術作品」だろうか。
(実はまだどれもまともに読んでいない)
■巨大な「否」
 何度話を聞いても、要旨らしきものを聞いても、分かった気がしないのがベンヤミンの議論の特徴なのかもしれない、と思ってしまう。ぜんぜん内容が分からず、見通しが立たず、読み始めても続かない。でも、なんとなく気になる。
 今回この本を読んでみて、冒頭で次のような断り書きがあった。
――――「(ベンヤミンの一貫性とは、)人格の一貫性、精神の徹底性を信じないということにおける一貫性(である)」
おお、そうなのか。一貫性もそこまでいっちゃっているのか。そう聞くとちょっと元気に読めそうな気がしてくる。
ちなみにこの本では、幸か不幸か、ベンヤミンの人生の生々しい部分にも触れられる。ベンヤミンは裕福で恵まれた境遇でありながら、それを拒否しようとする。しかし、拒否を境遇が拒むのだ。ベンヤミンの生き方そのものが巨大な否そのものなのかもしれない。
■キーワード覚書「アウラ」「夢」「遊歩」
「アウラ」:ひとまず、アウラという言葉は、「複製技術…」以外の本にも随所で出てくる言葉らしいということ、かなりベンヤミンの論考の中でも重要な地位を占めているらしいこと、しかし、多様な使われ方をしており、かならずしも一貫性を持っていないこと、破綻も多いらしいということが少し読み取れた。ベンヤミンのアウラということばの理解については、アドルノの「美の理論」という本も参考になりそう。
 「夢」と「遊歩」、この二つの言葉もまた、なにやら独特の意味を含んでいるのだろうという気がする。パサージュ論に花開いたこの二つの言葉に少しでも触れる思いが出来たらと思いつつ、今もこの本を読んでいる。


2006/11/23(木) 
「ディエンビエンフー」 西島大介 (角川書店)
昨日・一昨日と「ディエンビエンフー」というマンガを読んでみてました。
このタイトルが気になって仕方なくてね、ふっと目が覚めたときに「でぃえんびえんふー」というフレーズが思い出されたりして、これは買って読まないと払拭できないと思いまして、買って読んでみたわけです。

ベトナム戦争のお話でした。ぬおお
軽くポップに、なんじゃかえらい暴力っぽい描写が多くて、びっくりびっくり。



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