結構長いこと「雰囲気」ということについて考えている。それも、「研究」というかたちでそれを続けている。その脈絡もあって、インターネットでいろいろと雰囲気に関係する本を探していた。そのさなか、あるブックリストを偶然に見つけた。 それは、紀伊国屋書店のブックフェアのリストで、「〈雰囲気〉のためのことば」というタイトルを冠していた。本の一覧もすごかったけれども、なによりその冒頭にあった、「企画者の辞」に釘付けになった。
いい言葉に出会った、とドキドキした。その一つ一つの言葉が響いてきた。そのドキドキというのは、単なる同じようなことを考えている「仲間」を見つけてキャー嬉しい、というような癒着的な連帯感とか、妙な仲良し意識がもたらすものとは違う。この同じ時代を生きている人、しかもたぶんさほど年齢も変わらないであろう女性が、別の場所で、別の道筋で「雰囲気」ということを考え、そのための言葉について話そうとしていた。それを見出したことの、深くて、居ても立っても居られなくなるような気持ちだった。
わたしは、「雰囲気」ということをどうしても問わなくてはならない。それで今もしつこく問題にしている。それはもう、周囲がうんざりするほどしつこく。一応「研究」という体裁になっているけれども、研究であることの必然や意義がどれほどあるかと問われると甚だ懐疑的で、自分自身としてはその必然も意義も大声で張り上げることができなかった。この問題はどこか、いつまでも個人的なことという様相を帯びていた。他者に向けて話す必然や必須性が外的に要求されても、なかなか容易にはそれに答えられないし、仮に納得できないままに要求に答えたとしても、結局その言葉は行った先から力を失うような、その程度のものにしかならないのは明らかだった。
けれども、この言葉たちとの出会いのなかで、少し、それが変わった。風通しが良くなった。同じようなことに捕らわれながら、なんとか言葉にしようとしながら同時代を生きている人がいるなら、今私がいる場所から考え、言葉にすることが、そういう誰かにいつか届くことがあるかもしれない、響くことがあるかもしれない。それに賭けてみようか、とほんの少し思えたのだった。
それから数年して、この絵日記を描いた日、ずっと気になって仕方がなかった、あの「企画者の辞」を書いた女性と言葉を交わすことができた。偶然のようなめぐりあわせだった。インターネット上でのことだから、直接会ったわけではない。けれども、言葉を交し合えたことの手ごたえは大きい。言葉になりにくいものを言葉にしようとしている人の「横顔」を、しっかり見た、という気がした。横顔だけでもう充分だ、とさえ思った。直接会わなくても、向かい合わなくても、言葉にふれ、こんな近さで出会うことができたから。
この経験はなかなか消化しきれないだろう。噛み切れないだろう。なんともいえない嬉しさと消化しきれないものをそのまま抱えながら、私は私でやっていく。